〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/07 (火) 忘 ら れ 妻 (四)

子に気をとられて、良人おっと の素行には、さほど、うるさくもない女と、夫も多寡たか をくくっていた妻が、じつは世間並み以上の嫉妬家であったことを、何十年も連れ添いながら、新たに発見する場合がある。
常盤と夫の風聞を知った ── こんどの時子の態度が、そうであった。
あくる日、彼女はまた、弟の時忠を、部屋へ呼びつけていた。
陽春に近いせいもあろうが、彼女の眼のふちははなはだしく上気していた。
「和殿から、伊藤五景綱へ、きびしく申しつけてください。これは、わが良人つま も、御承諾のうえですから」
「は、伊藤五へ、何のおいいつけですか」
「いうまでもなく、常盤御前の処分です。三人の幼子おさなご は、それぞれ御処置もすんだのに、なぜいつまで、あの女性にょしょう だけを、ひそ と、景綱の屋敷にとどめておくのですか」
「それは、時忠の知った沙汰さた ではありません」
「けれど、あなたも、問罪所の主判代しゅはんだい でしょうが、公務の上からもかかわらぬわけにはゆきますまい。さっそく、景綱に命じて、常盤を追放するなり、寺院へ入れて髪をおろ させるなり、世間の非難がないように、計ろうて べ」
「わかりました。その儀は承知しましたが、六波羅殿のお浮気うわき は、姉上にも、多少の科がありますぞ」
「そうでしょうか。わたくしに、何の過失があるであろう。時忠どの、言って下さい」
「姉上も、いつか余りに、古女房めいて、色香も せたままにまかせ、とんと、良人の六波羅殿に、女としてのよそお いも心入れも、忘れておいでになるから、こんなことが起こったのでしょう」
「四人も五人もの子どもを産めば、女は、たれしも、そうなります。それが女のとが だと、あなたは言うのですか」
「ははは、おこ っては、いけませんよ。弟の善意で言うのですから。── ですから、女は、いや良人に添う女はですね。なんとか、年齢につれて、工夫くふう しないと、みんな姥桜うばざくら のころには、男に捨てられる運命にあるという御注意をいたしたまでです」
「では、どんな工夫をしたらいいんです」
「古めいても、どこかに、新しい匂いを持つことですな」
「わたくしは、遊女や白拍子しらびょうし ではありません」
「それ、その考え方が、古女房の通有性です。六波羅殿ばかりでなく、世の男の、四十台という年ごろは、これから、何かやりたくなるところです。時忠にしてもそうです。ところが、わが家の女房と来ては」
「そんなことは、男同士の雨夜あまよ れ話になされたがよい」
「やっておりますよ、その ればなしを。しかるに、どこの男の歎声も同じです。女房は可愛いが、女房はすぐ古くなる」
「勝手なことばかり・・・・」
「まったく、男は勝手です。が、その自我をわが家でたくましく養わなければ、世上の男づきあいや男の仕事にも奮闘してゆけません。ないしろ、四十不惑ふわく とか、古人は言ったそうですが、当世の男は、ちょうど、四十初惑しょわく というところですな。ごらんなさい、六波羅殿もこれから、いろいろやり出しますから」
滅相めっそう もない。あなたたちに浮かされて、つい、わがつま も、いい気におなりになるのです」
「いや、それよりも、六波羅殿が、すぐ れた男となられたら、姉君にも、努めて、ゆかしい匂いや教養を身にあつめて、良人とともに、女も成長してゆかねばだめです。男が、これからという盛りにかかると、女は反対に、しぼ んでしまう」
「もう、たくさん、お退 がりください」
「もひとつ、申し上げておく。これも姉君の落度ですぞ」
「なんですか」
「五条の商人あきゆうど朱鼻あけはな伴卜ばんぼく とかいう者を、お近づけになったのは、。姉君でしょうが。・・・・・ああいう俗物ぞくぶつ を、およろこびになるからいけません。常盤御前との橋渡しも、朱鼻だと、聞いています。── 事実、悪源太義平が、殿のお帰りを襲った夜にも、その鼻めが、お供しておったと、常陸ひたち どの (教盛) にも、困ったことだと、まゆ をひそめておられました」
時忠にとっては、実の姉なので、こういうときとばかり、忌憚きたん なく、言ってのけた。
時子はさすがに苦痛らしいくちびる をとじた。憎そうに、弟のうす笑いを、 めすえている。姉弟喧嘩きょうだいげんか は、おりおりにやるが、この弟の雄弁には、いつもやりこめられてしまう。けれど、今度の問題には、決して、負けまいという意志を、彼女はまゆ に描いていた。
「ええ、その伴卜にも、きっと、糾明きゅうめい を申し渡すつもりです。ですから、あなたは、今日中にも、伊藤五景綱へ、常磐の身の処置を、あきらかにするように、伝えてください。かならず、御猶予なく」
「とにかく、心得ました」
「とにかくではありません。わたくしの口から出ても、六波羅殿のお沙汰さた ですから、そのおつもりで」
時子は、懸命に、そこを強調した。── かねて常磐の有名な容姿や、また、うらぶれた後も失っていないやさ しさなど、うわさは、時子も聞いているに違いない。
そして、世間の情も、常磐にあるのを知って、彼女は、妻の地位の中に眠っていた自分を、俄然がぜん 、ふるい起こしたものであろう。女が女を批判するきびしい眼を持って、彼女は、常磐を たに違いない。
同日のこと、朱鼻も、時子の前に、呼びつけられた。
「おまえはもう、来てはなりません。出入りをあし めます」
「はっ」
と言ったきり、鼻の頓才とんさい も智弁も、急場の役をなさなかった。
「何か、御台盤所みだいばんどころ さまには、てまえに、御立腹でも」
「おだまりっ。それは、おまえの胸に問うがよい」
「御台盤所さまのお怒りにふれては、鼻は、腹でも切らねばなりませぬ」
「お切りなさい。切るほどな覚えがあるでしょう。おかしげな、おどけ者よと、軽う見て、出入りを許しておけば、ろくなお勧めはせぬ。わがつま をそそのかし、夜ごと、常磐通いの手引きなどして」
「や。・・・・それには」
と、鼻が頭へ手をやって、何か、言い訳しようとする間に、時子は、几帳きちょう のそばを立ち、もうその袿衣うちぎ を奥の廊へとひいていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next