「やあ、お怪我
もなくて」 その日。 清涼殿の北廊で出会ったとたんに、伊通が、彼の姿を見るなり言った。 清盛は、まごついて、 「なんですか」 と、問い返した。 そらとぼけたわけではなく、彼には、伊通に訊かれた意味が、まったく分からなかったのである。 「ほう。けろりとしておいでのよの。いや、あなたらしい。昨夜、どこぞのお帰りに、源氏の残党に襲われたとか、人びとのうわさであるが」 「あ。あのことよな」 「そのことですよ」 「もう諸卿にまで、聞こえておりますか」 「痴
れ者が、悪源太義平とあっては、この後とて、物騒です。夜のおん外出
などは、当分、よほどお気をつけなさらんと・・・・」 と意味ありげに言って ── 「春の夜は、つい、そぞろ心に誘われますからな」 と、例の調子で笑った。 内裏
でも、こんな風に、伊通にやんわり言われたし、その晩、清盛は、家庭へ帰ってからも、夫人の時子から、じわじわと、責められた。 「むかしの、あなたではありますまい。薔薇園
の裏垣 から、こっそり、忍んで行くようなまねは、どうか、この後はなさらないでくださいまし」 「いつ、おれが」 「時子は何も知らないと思っておいで遊ばすのですか。・・・・重盛を始め、子どもらも、みな成人して、それぞれ、家人を大勢抱え、朝廷へも、出仕している身ではございませんか」 「それが、どうしたのだ」 「まだ、そんな白々
しいお顔を。── 六波羅殿とも仰がれる今日のあなたが、朱鼻
風情 を、供に召されて、敵将の後家の許へお通いになるとは、なんということでしょう。余りにも、あさましいとは、お思いになりませぬか。嫉妬
で申すのではございません」 「似て来たなあ、だんだん、そなたも」 「冗談にお聞きなのですか」 「なんの、慎んで聞いておるよ。さればこそ、嘆じるのだ。そなたまでが、池ノ尼殿に、似て来られては、おれは、息をつくところがない」 「いいえ、蓬
の坪 でも、薔薇
の坪でも、佳 い側女
を、いくらでもお置き遊ばせ。男のそんな所作
を、妻がどう申しても直りはしますまい。けれど、人もあろうに、義朝どのの後家を」 「わかった。もうよせ」 「夜のおん外出
を、おやめになるなら、申しません。わけて、源氏の生き残りが、お命を狙っているとも聞いております。妻として、どうして、黙っておられましょう」 「ああ、そなたも、貞女なるかな・・・・だ。こうなると、祗園女御みたいな女性の良さもわかる気がする」 「何を、独り言
なさいますの。どうしても、まじめに、お聞き入れくださらないなら、わたくしは、尼公様に来ていただいて、わたくしのいうのが無理か否か、聞いていただくつもりです」 「いや、あやまる。池ノ尼このを、呼ぶのだけは、やめてくれ」 「では、もうきっと、常盤御前の許へ、見っともないお微行
などは、なさらないでしょうね。景綱にも、朱鼻にも、お約束の儀を、わたくしから申し渡すことにいたしますが、御異存はないでしょうか」 「ない」 清盛はほうり出すように答えた。そして、その夜も、花の上に、おぼろにふけゆく月を、むなしく妻の部屋からながめて、何か、いまいましげであった。
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