〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/07 (火) 忘 ら れ 妻 (三)

「やあ、お怪我けが もなくて」
その日。
清涼殿の北廊で出会ったとたんに、伊通が、彼の姿を見るなり言った。
清盛は、まごついて、
「なんですか」
と、問い返した。
そらとぼけたわけではなく、彼には、伊通に訊かれた意味が、まったく分からなかったのである。
「ほう。けろりとしておいでのよの。いや、あなたらしい。昨夜、どこぞのお帰りに、源氏の残党に襲われたとか、人びとのうわさであるが」
「あ。あのことよな」
「そのことですよ」
「もう諸卿にまで、聞こえておりますか」
れ者が、悪源太義平とあっては、この後とて、物騒です。夜のおん外出そとで などは、当分、よほどお気をつけなさらんと・・・・」 と意味ありげに言って ──
「春の夜は、つい、そぞろ心に誘われますからな」
と、例の調子で笑った。
内裏だいり でも、こんな風に、伊通にやんわり言われたし、その晩、清盛は、家庭へ帰ってからも、夫人の時子から、じわじわと、責められた。
「むかしの、あなたではありますまい。薔薇園しょうびえん裏垣うらがき から、こっそり、忍んで行くようなまねは、どうか、この後はなさらないでくださいまし」
「いつ、おれが」
「時子は何も知らないと思っておいで遊ばすのですか。・・・・重盛を始め、子どもらも、みな成人して、それぞれ、家人を大勢抱え、朝廷へも、出仕している身ではございませんか」
「それが、どうしたのだ」
「まだ、そんな白々しらじら しいお顔を。── 六波羅殿とも仰がれる今日のあなたが、朱鼻あけはな 風情ふぜい を、供に召されて、敵将の後家の許へお通いになるとは、なんということでしょう。余りにも、あさましいとは、お思いになりませぬか。嫉妬しっと で申すのではございません」
「似て来たなあ、だんだん、そなたも」
「冗談にお聞きなのですか」
「なんの、慎んで聞いておるよ。さればこそ、嘆じるのだ。そなたまでが、池ノ尼殿に、似て来られては、おれは、息をつくところがない」
「いいえ、よもぎつぼ でも、薔薇ばら の坪でも、側女そばめ を、いくらでもお置き遊ばせ。男のそんな所作しょさ を、妻がどう申しても直りはしますまい。けれど、人もあろうに、義朝どのの後家を」
「わかった。もうよせ」
「夜のおん外出そとで を、おやめになるなら、申しません。わけて、源氏の生き残りが、お命を狙っているとも聞いております。妻として、どうして、黙っておられましょう」
「ああ、そなたも、貞女なるかな・・・・だ。こうなると、祗園女御みたいな女性の良さもわかる気がする」
「何を、独りごち なさいますの。どうしても、まじめに、お聞き入れくださらないなら、わたくしは、尼公様に来ていただいて、わたくしのいうのが無理か否か、聞いていただくつもりです」
「いや、あやまる。池ノ尼このを、呼ぶのだけは、やめてくれ」
「では、もうきっと、常盤御前の許へ、見っともないお微行しのび などは、なさらないでしょうね。景綱にも、朱鼻にも、お約束の儀を、わたくしから申し渡すことにいたしますが、御異存はないでしょうか」
「ない」
清盛はほうり出すように答えた。そして、その夜も、花の上に、おぼろにふけゆく月を、むなしく妻の部屋からながめて、何か、いまいましげであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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