〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/06 (月) 忘 ら れ 妻 (一)

彼を乗せたまま車の奔牛ほんぎゅう は、やっと、とある築土ついじ の角で、止まっていた。 「たれの家か」 と清盛は車の上からたずねた。息を切って、牛に追いついて来た供人たちは、口をそろえて 「常陸ひたち どののお舘です」 と答えた。
「叩け、叩け。そこの門を」
清盛がひどくあわてている為に、理由なく、供の侍たちまで、 を失った。
はげしく、門を叩く。やがて門が開く。
邸内の人びとは驚いた。なんのあいさつもなく、とたんに、前栽せんざい へ、牛車を引き込んで来たのである。のみならず車上の客は、六波羅殿と聞いたので、
「こは、何事が起こって?」
と、奥のあるじ を呼びたてた。
常陸介教盛のりもり は清盛の実弟である。奥から駆け出して来て、
「や、どうなすったのです。こんな夜中に」
と、いぶかった。
「じつは、景綱を訪うて、帰りみち に、義朝の残党に待たれたのだ」
「えっ、源氏の残党ですと。よほど大勢ですか」
「いあや、一人だ」
「一人?」
「うむ・・・・」 と、うなずいたとき、彼もやや落ち着いて来たのだろう。急に、まが悪そうな顔をした。
今夜に限って、彼は、彼らしくもないおび え方をした。ただ一人の悪源太が、まったくこわ かったものらしい。
今になってみれば、清盛も 「どうしてあんなにあわてたのか」 と、自分がおかしく思われよう。しかし、その時の心理を探ってみると、彼にも思い当たる理由がないでもない。
と、いうのは。
妙に今夜は、義朝の末路やかれの面影が胸に往来していたのである。東獄のおうち の木へ けられた義朝の首が、眼にチラついたりしていた。そこへ、いきなり、 「義朝の子の悪源太ぞ」 と、車のれん へとびついて来た刺客の叫びに、偶然、心中の幻影とそれとが一つに結びついて、
(義朝の怨霊おんりょう
として、彼には作用したものにちがいない。
いや、もっと穿うが った考え方をすれば、 「義朝と相愛の女も、今夜かぎり、身も心も自分のものになった。常盤ときわ の方でも、今は、おれという者が忘れ得ない男となったに相違ない」 と凱歌がいか に似た満足と、そして陶酔とうすい にふけりながらも、一面には、彼の善良さがなお、心のどこかで 「義朝の思い」 とか 「死者の魂魄こんぱく 」 とかいうものに、べつな後味の悪さを、かもく していたものといえるだろう。骨肉の情愛には、人なみはずれてもろい清盛である。敗者の妻子にも、身につまされないでいられる彼ではなかった。
教盛は、とにかくと、兄をしょう じて、舘へ入った。そして、やがて、談笑のうちに、
「ただ一人の義平ごときを、どうして、そんなにおそ れられたのです。御車には、侍者じじゃ も大勢ついていたでしょうに」
と、疑わしげにたずねた。
「おれはどうかしていたらしいな」
と、清盛も正直に、自分の醜態はみとめていた。
「御酒にでも酔っておいでになったので?」
「いや、酒は飲んでいない」
「では、どこのお帰りだったのですか」
「景綱の家を訪うて」
「はて、景綱はこよい、小松殿のお招きで、留守のはずですが」
「だから、むなしく戻って来た途中なのだ。襲われたのは」
「ははあ・・・・?」
教盛は、おかしさを、禁じ得ない容子ようす で 「うそでしょう。常盤通いのうわさは、わたくしも聞いていますよ」 といわんばかりに、まじまじと、口もとだけで笑って見せた。
ほどなく、朱鼻あけはな伴卜ばんぼく も、やっと清盛を探し当ててここへ来た。彼を見るや、清盛はすぐ座を立って、
れ者はどうした?」
と、早口にたずね、
「逃げうせました」
と聞くと、さっそく、帰ろうと言い出した。元の車の内へ入って、早くやれと、うながした。
鼻は、牛飼や供の者をそろえて、車を り出した。教盛は、この男を、好かないようだった。今夜に限らず日ごろもである。── が、今はそんな怪訝けげん を抱いてもいられない。念のため、家の子十数人を警固に付けて、送り出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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