〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/06 (月) ほん  ぎゅう (二)

「急がいでもよい。ゆるやかにやれ、牛のままに」
車のうちから、清盛は命じた。
物みなしっとりとにお いに濡れている春の夜更けを、適度な揺られ心地と、甘い思いにふけって、帰る道までを、なお楽しもうというつもりらしい。
(恨みには、思うまい。・・・・次の会う夜には、どう、おれを迎えるか)
彼は、女人には征服的に臨むのを好まない。戦いは、保元、平治の血みどろで、たくさんだ。義朝の首をさらし、そのほか無数の首を見、征服欲は、あきあきしている。生かすも殺すも自由になる常盤までを、力で従わせたくなかった。自然な開花を期待した。そしてその通りに常盤は徐々に変った。おれは、恋を志したのだ。貞操を屠殺とさつ した者ではない。かりに義朝が生存していようと、これは、恋である。
── たれへともなく、彼の胸は、言い訳をつぶやき出した。よく、朱鼻が見すかしている通り、彼の気の弱さがなすところかもしれない。 「義朝」 という名を、今宵の帰途に思い出しているだけでも。
すると。
大宮大路の松の並木を西へ車をまわしかけた時である。車のうしろで、武者の一人が、ふいに異様な叫びを発し、地ひびきさせてたおれた。そして、すべての声も、ほとんど一つに、
「うぬ、 れ者っ」
と、おめ きながら、何者かと、取っ組んだらしい。
「あ、な、なんだ?」
車の中で、清盛は、ひざを立てかけた。
れん へ片手を伸ばし、外へ、首を出そうとすると、暴風のように、車の横へ、ぶつかって来た人間がある。
小具足を着けた小柄な男だ。しかし、顔いっぱい口を開け、眼は、らんと、闇を ぶ野猫のものに似ていた。
太刀を片手に、
「やよ、清盛。鎌倉の悪源太を見知らぬか。おれのみはまだ、なんじとの合戦を、やめてはいないぞ。義朝の子、悪源太義平ひとりは」
と、息あらあら、呼ばわった。
いや、行動の方が、より先であった。
下から、左の手が、清盛のそで へ伸びた。つかみ損ねて、また跳びかかったが、簾を引き裂いただけで、悪源太は、車のながえ から、放り出されていた。
牛は、過ってしりを斬られ、その間も、がらがら奔走していたのである。
「待てっ。父義朝のあだ・・
悪源太は、跳ね起きて、しぐ車を追ったが、追わせじと、供の侍たちが、前をふさぎ、うしろから、長柄を振り浴びせる。
鼻は、一度、仰天して、横っ飛びに、並木の蔭へ逃げ込んだが、
「やや、義朝の子と、たしか、ほえたぞ。あの鎌倉の悪源太なら、すわ、事こそ」
彼は、すぐそこから横の土塀どべい 小路へ走りこんだ。ひとつ型の小屋敷ばかりが続いている。俗に、六波羅の小者こもの 曲輪ぐるわ と呼ばれている雑兵長屋ぞうひょうながや だ。
「盗賊なあるぞ。盗賊なあるぞ。出で合え、出で合え」
鼻は、どなりまわった。
あちこちの土の門や、ひさし の下から、たちまち、得物をおっ取り持った人影がとび出し、そして、きょろきょろ、駆け乱れた。
「並木へ行け。大宮のつじ へ、駆けつけろ。それから、たれでもいい、かね を打て、鉦を打ち鳴らすんだ鉦を」
しかし、彼が言う所の辻へ来ても、大路を見渡しても、何の異変はなかった。群れ集まった小者たちは、きつね につままれたようなお互いを、見比べて、
「たれだ、ひとがせっかく、寝ついたところを、どなりまわって、起こしたやつは」
と、ぼやき合った。
けれど、地上を見ると、長柄だ落ちている。すこし行くと、斬られた者がうめいている。なお先には、また、死者が横たわっていた。
騒ぎは、広がった。
一族のなにがしたちや、武者輩むしゃばら の家々でも、
「何事かよ」
と、下部しもべ を見せに走らせたり、自身、馬を引き出し始めたりした。
鼻は、狼狽ろうばい した。ちと、気転をきかせ過ぎたと思う。しかも、清盛の牛車は、見当たらないのだ。安否の程も不明である。あのまま薔薇園しょうびえん へ帰ったとも考えられない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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