「急がいでもよい。ゆるやかにやれ、牛のままに」 車のうちから、清盛は命じた。 物みなしっとりと匂
いに濡れている春の夜更けを、適度な揺られ心地と、甘い思いにふけって、帰る道までを、なお楽しもうというつもりらしい。 (恨みには、思うまい。・・・・次の会う夜には、どう、おれを迎えるか) 彼は、女人には征服的に臨むのを好まない。戦いは、保元、平治の血みどろで、たくさんだ。義朝の首をさらし、そのほか無数の首を見、征服欲は、あきあきしている。生かすも殺すも自由になる常盤までを、力で従わせたくなかった。自然な開花を期待した。そしてその通りに常盤は徐々に変った。おれは、恋を志したのだ。貞操を屠殺
した者ではない。かりに義朝が生存していようと、これは、恋である。 ── たれへともなく、彼の胸は、言い訳をつぶやき出した。よく、朱鼻が見すかしている通り、彼の気の弱さがなすところかもしれない。
「義朝」 という名を、今宵の帰途に思い出しているだけでも。 すると。 大宮大路の松の並木を西へ車をまわしかけた時である。車のうしろで、武者の一人が、ふいに異様な叫びを発し、地ひびきさせてたおれた。そして、すべての声も、ほとんど一つに、 「うぬ、痴
れ者っ」 と、喚 きながら、何者かと、取っ組んだらしい。 「あ、な、なんだ?」 車の中で、清盛は、ひざを立てかけた。 簾
へ片手を伸ばし、外へ、首を出そうとすると、暴風のように、車の横へ、ぶつかって来た人間がある。 小具足を着けた小柄な男だ。しかし、顔いっぱい口を開け、眼は、らんと、闇を跳
ぶ野猫のものに似ていた。 太刀を片手に、 「やよ、清盛。鎌倉の悪源太を見知らぬか。おれのみはまだ、なんじとの合戦を、やめてはいないぞ。義朝の子、悪源太義平ひとりは」 と、息あらあら、呼ばわった。 いや、行動の方が、より先であった。 下から、左の手が、清盛の袖
へ伸びた。つかみ損ねて、また跳びかかったが、簾を引き裂いただけで、悪源太は、車の轅
から、放り出されていた。 牛は、過ってしりを斬られ、その間も、がらがら奔走していたのである。 「待てっ。父義朝のあだ
」 悪源太は、跳ね起きて、しぐ車を追ったが、追わせじと、供の侍たちが、前をふさぎ、うしろから、長柄を振り浴びせる。 鼻は、一度、仰天して、横っ飛びに、並木の蔭へ逃げ込んだが、 「やや、義朝の子と、たしか、ほえたぞ。あの鎌倉の悪源太なら、すわ、事こそ」 彼は、すぐそこから横の土塀
小路へ走りこんだ。ひとつ型の小屋敷ばかりが続いている。俗に、六波羅の小者
曲輪 と呼ばれている雑兵長屋
だ。 「盗賊なあるぞ。盗賊なあるぞ。出で合え、出で合え」 鼻は、どなりまわった。 あちこちの土の門や、廂
の下から、たちまち、得物をおっ取り持った人影がとび出し、そして、きょろきょろ、駆け乱れた。 「並木へ行け。大宮の辻
へ、駆けつけろ。それから、たれでもいい、鉦
を打て、鉦を打ち鳴らすんだ鉦を」 しかし、彼が言う所の辻へ来ても、大路を見渡しても、何の異変はなかった。群れ集まった小者たちは、狐
につままれたようなお互いを、見比べて、 「たれだ、ひとがせっかく、寝ついたところを、どなりまわって、起こしたやつは」 と、ぼやき合った。 けれど、地上を見ると、長柄だ落ちている。すこし行くと、斬られた者がうめいている。なお先には、また、死者が横たわっていた。 騒ぎは、広がった。 一族のなにがしたちや、武者輩
の家々でも、 「何事かよ」 と、下部
を見せに走らせたり、自身、馬を引き出し始めたりした。 鼻は、狼狽
した。ちと、気転をきかせ過ぎたと思う。しかも、清盛の牛車は、見当たらないのだ。安否の程も不明である。あのまま薔薇園
へ帰ったとも考えられない。 |