女房門を、こっそり、男の影が出て行った。暗いだらだら坂を降
りにかかる。いつもここを通う降しのび
の主従にちがいない。 「いかがでした、殿」 朱鼻あけはな
の伴卜ばんぼく は、清盛の供をしながら、そっと、たずねた。 「・・・・・・」 「殿、いかがでしたか、今宵こよい
は。・・・・今宵こそはの、ご首尾は」 何を言っても、清盛は、答えない。不機嫌のようにさえ見える。 この女房門の道で、清盛のそんな顔つきというものに、彼は初めて出会った。どうもただごとではない。 (・・・・はてな) と、彼もしばらく黙って歩いた。 そのうちに、鼻はひとりでクスクス笑い出した。清盛が、じろと、眼のすみで、睨ね
めつけると、鼻はなお笑った。 「いけませんよ、殿。余人は知らず、この鼻をごま化そうと遊ばしても、何条、たぶらかされましょう。その道の識者しきしゃ
ですぞ、かく言う手前は」 清盛もついに、にんやり、歯を見せずにいられなかった。 「うるさいから、黙っておれ」 「けれど、このように、恋路のお供をして、真実、わが恋のように、やきもきしている男です。ご首尾の一言ぐらいはお聞かせくだすっても、罰は当りますまい」 「うるさいな・・・・とやかく、おまえなどに騒ざわ
めかれると、余情も余韻もさめてしまう。黙って、歩いていたいのだ。黙っておれ」 「あ。では」 鼻は、わざと、清盛の横顔を仰いで、大げさに、うなずいた。強しい
いて訊き くまでもなく、分かるものである。移うつ
り香か といったようなものが嗅か
ぎ取れるのだ。 「── おうい」 坂の下の小松原に、牛車と供の侍たちを待たせてある。鼻は、その者たちを呼んだのであった。 わざと松明たいまつ
もともさず、牛飼も入れて十人ほどの少人数だが、すぐ道ばたまで、牛車をひき出して来た。 清盛は、やっと、我に返った。 鼻が、大きな声で牛車を呼ぶまで、彼はなお、まったく常盤のそばから離れていなかった。貞節な女人が、貞節から分身する苦悶くもん
の悲泣と、同時に襲われた歓喜との交錯こうさく
に、ふたつの身もだえが、一つの女体図として描かれたのをあの時見た。清盛も心が遠くかすんでしまい、浄土曼陀羅じょうどまんだら
の仏画のような世界へ溶け入って、しばし裸天女らてんにょ
と共に雲を枕まくら に寝た思いであった。現実に返っても、その夢の香や幻影が消えないのである。
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