〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/05 (日) ほん  ぎゅう (一)

女房門を、こっそり、男の影が出て行った。暗いだらだら坂をくだ りにかかる。いつもここを通うしのび の主従にちがいない。
「いかがでした、殿」
朱鼻あけはな伴卜ばんぼく は、清盛の供をしながら、そっと、たずねた。
「・・・・・・」
「殿、いかがでしたか、今宵こよい は。・・・・今宵こそはの、ご首尾は」
何を言っても、清盛は、答えない。不機嫌のようにさえ見える。
この女房門の道で、清盛のそんな顔つきというものに、彼は初めて出会った。どうもただごとではない。
(・・・・はてな)
と、彼もしばらく黙って歩いた。
そのうちに、鼻はひとりでクスクス笑い出した。清盛が、じろと、眼のすみで、 めつけると、鼻はなお笑った。
「いけませんよ、殿。余人は知らず、この鼻をごま化そうと遊ばしても、何条、たぶらかされましょう。その道の識者しきしゃ ですぞ、かく言う手前は」
清盛もついに、にんやり、歯を見せずにいられなかった。
「うるさいから、黙っておれ」
「けれど、このように、恋路のお供をして、真実、わが恋のように、やきもきしている男です。ご首尾の一言ぐらいはお聞かせくだすっても、罰は当りますまい」
「うるさいな・・・・とやかく、おまえなどにざわ めかれると、余情も余韻もさめてしまう。黙って、歩いていたいのだ。黙っておれ」
「あ。では」
鼻は、わざと、清盛の横顔を仰いで、大げさに、うなずいた。しい いて くまでもなく、分かるものである。うつ といったようなものが ぎ取れるのだ。
「── おうい」
坂の下の小松原に、牛車と供の侍たちを待たせてある。鼻は、その者たちを呼んだのであった。
わざと松明たいまつ もともさず、牛飼も入れて十人ほどの少人数だが、すぐ道ばたまで、牛車をひき出して来た。
清盛は、やっと、我に返った。
鼻が、大きな声で牛車を呼ぶまで、彼はなお、まったく常盤のそばから離れていなかった。貞節な女人が、貞節から分身する苦悶くもん の悲泣と、同時に襲われた歓喜との交錯こうさく に、ふたつの身もだえが、一つの女体図として描かれたのをあの時見た。清盛も心が遠くかすんでしまい、浄土曼陀羅じょうどまんだら の仏画のような世界へ溶け入って、しばし裸天女らてんにょ と共に雲をまくら に寝た思いであった。現実に返っても、その夢の香や幻影が消えないのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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