〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/05 (日)  てん によ (四)

「文覚というのは、むかし院の武者所にいて、遠藤盛遠といった男だ。おれとは、勧学院の同窓でもあった・・・・それが、どういうわけで、そなたへ、歌など、よこしたのだろう」
── この夜もである。
明りもない部屋のおぼろな中に、男女ふたり だけで、相寄っていたのに、彼はまたも自分から、さあらぬことなど、言い出してしまった。
「・・・・また、この歌は、どういう意味を、そなたへ言おうとしているのか。── すゑ知れぬかすみ の野べの道とても分けゆくままにかぎりこそあれ、とは」
「分かりませぬ。文覚様とやらにも、お会いしたことさえないのです」
「そうか。歌の心は、おれにも ける気がするが」
「どういう意味でございましょう」
「源氏は亡び、義朝の縁につながる女子どもも、つらい世を、果て知れずさまようであろうが、いつかは、かならず果てはある、源氏の世となる日も来よう。── そういって、そなたを力づけている歌だ」
「ま、そらおそ ろしいことを」
「いや、世間の情だ。そう考える者が多いのは、ふしぎでない。ことに、文覚は、おれが信西しんぜい 入道に親しい仲だったという点からも、清盛を、良く見ていないにきまっている」
「いえいえ、それは殿の思い過ごしでいらっしゃいます。わたくしの歌の解きようは、殿とちがいまする」
「どう、ちがう」
「霞の野べの道とは、常盤の心になぞらえて、女の道のかなしさを、歌っているのでございましょう。わたくしに、生きる励みを持つように」
「そうも、解けば、解ける」
「ありがたいお歌と、きょう一日、文机の上において、見ていました。・・・・もう死ぬまい、生きていよう、どうなっても、霞の道を歩こうと思い直して」
「死のうなどと、まだ、おりおり思うのか」
「え。あまりの、さびしさに襲われると、さくらの花のささめきも、ふと、死の誘いに聞こえて来て」
鞍馬くらま の子、醍醐だいご にある子など、子を見られぬかなしさにか」
勿体もったい ない。助けて給わった和子たち。もう世にはいても、いないものと、あきらめておりまする」
「では、義朝よしとも が恋しゅうてか」
「ア。むごい、おことばを」
常盤は、低く叫んで、白いおぼろな顔に、眼だけを、涙の坩堝るつぼ にしてみせた。そのたぎ りから、たま を溶いては、また、いくすじもの珠を、滂沱ぼうだほお にまろばせた。
「・・・・常盤」
清盛は、抱いた。ふるえる肩を。── そしてこの夜にかぎって、その肩に、彼女の許容が感じられた。それは乳飲み子の声からも、義朝の亡霊からも、振りほどかれて、彼女がただ一個の女でしかない姿態しな を不覚にも示したことなのである。清盛の心炎が全身を火にしたのも、それを見た眸がとたんに口火をなしたからだった。
彼が、幾夜も心に飼いつないでいた野性の獣は、おり の口を開けられたように、猛然と、常盤の唇を追いつめた。常盤は、自分が呼び出した爪牙そうが の勢いに恐怖して、身を弓なりに面を反らした。哀訴とも、泣きむせぶともつかない、あやしいうめきも、もう男の思慮にかかるものではない。かえってそれはすでに彼女のはだ にまで迫っていた爪牙を盲目にさせるだけであった。
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常盤は、死んだように、なお、いつまでも、袿衣うちぎ の下に黒髪を投げみだしたまま、泣いていた。
やがて、清盛が帰って行くのも、送らなかった。
白い花びらが、いつとはなく、部屋の中にまで、散り迷って来て、そこの黒髪や袿衣の上にまで、何か、生きものみたいに、白い を置いていた。
こずえを離れたばかりの花びらは、なおまだ呼吸していたが、彼女の姿は、嗚咽おえつ の波をうちながら、もう、死んだもののようにしか見えなかった。
そしてなお、しゅくしゅくと、春の夜のかぎり、すすり泣いている常盤であった。それは、彼女が彼女を弔う悲泣の葬送楽ともいえるであろう。義朝と別れ、子たちと別れ、今また彼女は、昨日までの自分と別れた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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