〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/05 (日)  てん によ (三)

文覚。たえて会わないこと久しい遠藤武者えんどうむしゃ 盛遠もりとう
うわさは、ちらちら聞く。
また、かつて、少納言信西しんぜい 入道の舘へ、政治上の献言をもって怒鳴り込み、大乱暴を働いて立ち去ったということも、信西の生前に、聞いていた。
(あいかわらず、飄々ひょうひょう 踉々ろうろう 、市にさまよい、野山に寝、さだまる所もないとみえる)
清盛は、愍然びんぜん たるものを、昔の同窓の友へ寄せた。
彼を思い出す時、すぐ頭にうかぶのは、袈裟けさ の名である。一生を女のために棒に振った男 ── ということだ。
(ばかなやつ)
と、当時、わら ったものである。
だが今は、彼を嘲う資格がない。今の自分にはと、清盛は、ひそかに思った。
もし今、彼がここに居たら、
(二十歳の頃のおれに愚と、四十男の貴様の愚と、いずれが愚か、いずれが悪質か)
と、いうだろう。
常盤腹の子三人を、助けたのはいい。しかし、助けたあとで、なぜたびたび、用もないのに、常盤の所へ通うのか。
(たしかに、おれは、さもしい。そして意気地がない。朱鼻めが、言ったとおりだ)
彼には、文覚のような行き方は出来ない。若い時からすでに、彼のように、一途いちず ではなく、純情でもなかったことが、常盤に対しても、はっきりと、現れたというしかない。
なぜ、常盤へ、切り出せないのか。
燃えながら、恋いを、内にいぶして、」しらじらと、外面を、さりげなくよそお っているのか。
折らば折られもせん ── ともする観念の眼を、いつでも、閉じ塞ごうとしている目の前の君の姿ではないか。
どうして、朱鼻がよくいう、男性の力の、ひと押しが、押せないのか。ねじ伏せて、羽交い絞めにた後の、見えすいている女のよろこびへ到らしめてやるために、わずかな間の、抵抗と怨言と流涕りゅうてい に、忍べないのか。
いや、一瞬の暴を、あたまに描くと、それは、彼の心の底深く眠っている野性の嗜好しこう と、合致して、むらと、即座な行為をそそられもした。ひとみ は獣欲の炎になる。常盤は全身でビクと鋭敏に感じ取る。すると、なぜか、彼女もすくみ、清盛もすくんでしまうのだった。つばをのんだまま、固くなり合い、ただお互いの呼吸を耳にするだけの空しい男女ふたり ができてしまう。
そんな時、清盛の心のまえには、何が立ちふさがって、彼の野性の勇を、はぐらかしてしまうのだろうか。
慈悲ぎらいだという彼だ。宗教ではない。正室の時子のほか、側室も幾人かもっている。女性には潔癖という彼でもない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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