〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/05 (日)  てん によ (二)

たれか、うしろに、人が立ったような気配けはい である。常盤はそれを感じないではないが、窓を離れるのがこわ かった。波にさらわれないとして岩にすがっている磯藻いそも のように、窓によっていた。
「常盤。・・・・何を見ているのか」
やはり、清盛の声であった。
彼女は、予知していたらしく、その人の声と分かっても、にわかに姿を持ち直すでもなく、
「花を見ています」
と、そのまま答えた。
外の、花明りに、そこはかとなく、部屋の内は、ほの明るい。清盛は、やがてすわって、一人黙りこくっていた。
常盤もいつまでも窓にいた。
灯の消えていたことが、偶然、二人には倖せした。いつものように、身をこわ め合うて、涙をそむけたり、息をつめて、横顔と横顔とをつき合わせている苦しさもない。
清盛が、おりおり、ここへ通い始めたのは、三人の子の処分を明らかにした後である。その前とても、べつに、なんの約束があったわけでもないから、常盤が、
(人目もあります、世間のうわさも、うるそうございます。どうか、ここへは来てくださいますな)
と、ことわ れば、断り得ないわけではない。
清盛の寛大な処置を、恩とは感じ、情けとは受けても、女の自由は、なお彼女の意志のものである。取りかえてもいなければ、奪われてもいないのである。
けれども常盤には、もうその人へ向かって、その人の心をきず つけるようなことは言えなくなっていた。いと う気持よりは、心待ちに待つような心理が、いつか彼女を支配し出していた。
(あさましや。わがつま 、義朝どのを亡ぼした仇人あだびと を)
とみずから、おぞ気をふるって自分へいい聞かせてはみても、運命の自然な歩みとそのその環境に伴って、新たな日に適応してゆく心の必然は、否みようもなく、彼女のうちに、彼女も気づかない、変りかたをいつかしていた。
「・・・・お、夜風に、机の反古ほご が飛んでいる」
清盛は、壁代かべしろ の下へ手をのばした。そしてその紙片を、文机の上へもどす前に、ふと、おぼつかない花明りをたよりに、読みかけた。

すゑ知れぬ
かすみ の野べの道とても
分けゆくままみ
かぎりこそあれ
やっと読み判じられたとき、常盤も気づいて、
「あれ、それは」
と、あわてて、彼のそばへ、寄って来た。そして、返して欲しい表情をこめて、なお、すり寄った。
「見てはいけない物か」
「いいえ、べつに」
「これは、そなたの筆ではないな。たれから来た消息なのか」
「・・・・・」
「男文字のようでもあるし」
「・・・・・」
常盤は、答えに困った。
消息ではない、ただの歌反古だと言い抜けようにも、折り目が明らかだし、また、たしかに、便りの主は男である。
「え。仰っしゃる通り、私の歌ではありません。なんですか、街を歩いていたおかしな僧侶そうりょ が、これを常盤御前へ渡せと言って、蓬子よもぎこ に手にあずけて行ってしもうたとか」
「蓬子とは」
「以前、子たちのもり をさせていた召使の女童めわらべ です。大和の隠れ家に、わざと残して来ましたのに、なお、和子たちやわたくしを慕い、たず ね尋ねて、ここを訪うて参りました。── その蓬子が、道で逢うたお坊さまから預かったと申して持って来たのです」
「では、その僧侶は、たれなのか、分かっているはずではないか。そなたの女童めわらべ と知らぬ者が、そなたへ、歌の言づてを、頼むわけもないからな」
「親しくはありませんが、保元の合戦のとき、柳ノ水の、あの焼き払われた御所の跡へ、小屋を掛けていた乞食こつじき のようなお坊さまと申しました」
「・・・・名は」
文覚もんがく とか」
「あ。あの盛遠か」
清盛は、もいちど、文字を見直した。なんのこと、よく見れば、折り目の端に ── もんがく ── と墨うすく、しかし筆鋒ひっぽう のあらい仮名文字も読まれるのであった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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