花の上の月はあまりの儚
さに 声うちあげて泣きたくぞおのふ 孤独というよりは、もっと空しい寂寥せきりょう
である。それにじっと堪えている魂が、嗚咽おえつ
のように、つぶやいた。 ひとつの古歌が思い出されたのか、自分のつきつめた思いが歌の形をとって咽むせ
び出たものか、常盤の胸はいま、そうしたけじめも、風雅ふうが
も持たない。 ただ、ふと、吐息の下に、口ずさんだだけである。 彼女は、ここの女房部屋の窓に、もたれたまま、身じろぎもせず、外の朧おぼろ
に向かって、春の夜を、うつろにいた。 今若いまわか
は、どうしたろう。乙若おとわか
は、人に馴ついているだろうか。 母を離れて、鞍馬くらま
の上へ、人に抱かれて去った牛若うしわか
は、どう育って行くだろうか。 (── 親はなくても子は育つ) たれかが言ったその言葉が、どうか真理であってくれればよい。彼女はそう祈りながら、また、その言葉の持つ底冷たい世間の常識がうらめしくもなった。子をもぎ取られて虚うつろ
になった孤母の姿を自分に見て、 (もう、どうしよう・・・・) と、生きる力も失った。 恋痩こいや
せのうつろな人のことをよく “空蝉うつせみ
の君” と言ったりするが、乳房や、添い寝の子を幾たりも一時に奪われた母の虚脱は、それとは較くら
べようもない空むな しさである。 また、意地悪く、牛若が山へ送られてから、乳も滴た
れるほど張ってきた。余りに乳房の疼うず
きを凝こ らせたせいか、乳房にゅうぼう
から全身に熱ねつ をおこし、それに母として、三人の子の命が、とにかく救われたという安心も手伝って、幾日か、病床についてしまった日もある。 そんなとき、ここの屋敷の主の伊藤五景綱は、 「万一、長引くような病やまい
にでもなっては、六波羅どのへたいしてもおそれあり」 と、医師を迎え、薬餌やくじ
や手当てにも怠りなく、常盤の容態といえば、一方ならぬ気づかいを示すのだった。 なんで、景綱をはじめ、召使までが、自分をそのように大切にするのか、常盤には、それも分かっていた。よく分かっているだけに、 (もう、どうしよう) と、そのことにも、生きるのが恥じのように、おののくのだった。 この女房部屋の見張りの役を兼ねて、常盤の身のまわりに仕えている老女は、ある日の世間ばなしに、こんなこともささやいた。 「ちまたでは、みな、あなた様のことを、賞ほ
め称たた えておりますよ。──
操みさお を守るだけが何も貞女ではない、常盤ときわ
御前ごぜ のように、操を捨てて子を救ったのも、類たぐい
のない貞女よ、立派な女の道よと、みな言うのでございます」 また、景綱の妻も、ある日、そっと見舞いに来て、 「世には、六波羅どののお目にとまって、ご寵愛ちょうあい
をうけたいと、心ひそかに、眉目みめ
を粧よそお う女性は、どれほど多いか知れますまい。──
それを思えば、あなたは、なんというお幸せか知れません。よほどいい月日の下に生まれ合わせたのでしょう。もう、なにごともクヨクヨしないで、せいぜい美しくp飾り遊ばせよ。ほんにお若いのですもの。女の盛りは、これからです。そのうえ、六波羅どのの想おも
われ人となれば、どんな栄花えいが
だって、望めないことはありません」 と、言ったりした。 常盤は、身をちじめて、襟元まで羞恥しゅうち
に染まりながら、袖そで の裏に顔を隠して聞いていた。耳をふさぎたいような母性の理智と、氷の池みたいに堅くしている貞操の意志の底を、ふと、春の陽ひ
ざしに、意地悪くのぞかれているような気持に、弄なぶ
られるのであった。 とにかく。 人はみな一様に、清盛は、事前に、常盤のからだを自由にした。そして、常盤も、身をゆるした。だから聴かれないはずの願いも、聴き届けられたのだと、決めてかかっているのである。 ところが、そんな事実は、二人の間には、まだなかった。 清盛に、凡夫の野心が、潜んでいたのは争えない。けれど、政治と、貞操とを、交換条件にして、無力な寡婦かふ
を、むりに口説き伏せたというような説は、周囲の憶測おくそく
であり、ちまたの捏造ねつぞう
である。清盛には、身に覚えがあるまい。 すべて、そういう 「清盛的性格」 は、平家滅亡後に、鎌倉期の筆者が、作りあげたものである。 もとより多分に、彼も、凡夫ではあり、多情多血であり、また権力をふるった時代型の人間には違いなかったが、常盤との関係は、余りに、ゆがめられすぎている。 なにぶんにも、後の鎌倉幕府たる頼朝の治下にんまっては、義経の生母である常盤と、清盛との関係は、あんなふうに書かなければ、ぐあいが悪かったものであろう。 |