〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/04 (土) はる だい (四)

清盛には、これはまるで、災難と同じであった。
義朝をやぶ った平治の先陣とはおもむき を異にして、常盤に施したことごとの凡情は、すべて清盛の敗北だというしかない。
「どうにも、もどかしくて、 れったくて、てまえなどには、見ていられません。世間の方が、ああまで取沙汰しているのに、なんたる殿の歯切れの悪さでしょう」
朱鼻あけはな 。そう、おれを恥じしめるな。おれとて、苦しいわえ」
「では、やはり、まだ・・・・。昨夜も、まだ、なのでしたか」
「なにがぞ。まだとは」
「それ、そのように、大事なところになると、ひとごとのように、話をおそらし遊ばす。なぜ、常盤御前のはだ には未だ触れておらぬとか、じつは、触れたとか。── そして、朱鼻、どうしたものかと、仰っしゃっては くださいませぬ」
「恋に、人手の借りようはあるまいが」
「いや、ありまする」
「どう、ある」
「てまえが、いちど、常磐どのにお会いして、殿のお心を、ねんごろに、説きましょう」
「頼まぬ。いらざることだ」
「あれ・・・・」 と、あきれ顔に 「まだ、そんなお迷いを、仰っしゃいますか」
「む。迷いにはちがいない。だがおれは、片恋をしているのだ。片恋が、片想いにならぬ恋になるまでは、通うてみせる」
「あははは。殿は、お幾歳いくつ にならせますな」
ごと かは、この下郎げろう め。すこしつつし め」
「でも、四十男のお言葉とも思えません。女性にょしょう と会う恋の殿堂とは、天来の契合けいごう です。そんなふうに、一の門、二の門、三の門と、いちいち訪れて、いちいち許しをうけてから、入らなければ悪いようなものではありません。殿は、恋を、あとさきにしていらっしゃる。悪いことは申しません。とにかく、女体の夢殿へ、さきにさん じてしまうことです。女性の偽りない愛情やささやきが欲しいというお心なら、それは後から達せられますよ。── 今宵こそは、御勇気をふるって、ぜひ、てまえの申しようにお試みなされなせ。・・・・おう、星が見え出しましたな・・・・また、いつもの牛車雑色くるまぞうしき に、ここまでそっと牛車くるま をひき入れさせて参りましょう」
朱鼻あけはな が、廊の橋を、渡りかけると、清盛も釣られ気味に起ち上がったが、呼び返して、こう、注意した。
「時子に、見つかるなよ。・・・・近ごろ、おれを見る眼が、どうも、うすうす気づいているらしく思われる」
「なんの、ご懸念に及びましょうぞ。もし。おたずねをうけたら、よいように申し上げます」
ほどなく、鼻はふたたび、薔薇園の泉のそばへ、牛車について、入って来た。
常盤通いの夜の供には、いつも顔の決まっている武者だけが いて行く。清盛の影が、夜遊びの放蕩児ほうとうじ のように、すばやくれん の内へかくれると、心得顔に、供武者たちは、忍び牛車ぐるま のまわりを囲んだ。そして性急に、河原門の外へ牛を追い出して行くのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next