清盛には、これはまるで、災難と同じであった。 義朝を破
った平治の先陣とは趣おもむき
を異にして、常盤に施したことごとの凡情は、すべて清盛の敗北だというしかない。 「どうにも、もどかしくて、焦じ
れったくて、てまえなどには、見ていられません。世間の方が、ああまで取沙汰しているのに、なんたる殿の歯切れの悪さでしょう」 「朱鼻あけはな
。そう、おれを恥じしめるな。おれとて、苦しいわえ」 「では、やはり、まだ・・・・。昨夜も、まだ、なのでしたか」 「なにがぞ。まだとは」 「それ、そのように、大事なところになると、ひとごとのように、話をおそらし遊ばす。なぜ、常盤御前の肌はだ
には未だ触れておらぬとか、じつは、触れたとか。── そして、朱鼻、どうしたものかと、仰っしゃっては くださいませぬ」 「恋に、人手の借りようはあるまいが」 「いや、ありまする」 「どう、ある」 「てまえが、いちど、常磐どのにお会いして、殿のお心を、ねんごろに、説きましょう」 「頼まぬ。いらざることだ」 「あれ・・・・」
と、あきれ顔に 「まだ、そんなお迷いを、仰っしゃいますか」 「む。迷いにはちがいない。だがおれは、片恋をしているのだ。片恋が、片想いにならぬ恋になるまでは、通うてみせる」 「あははは。殿は、お幾歳いくつ
にならせますな」 「戯ざ
れ言ごと かは、この下郎げろう
め。すこし慎つつし め」 「でも、四十男のお言葉とも思えません。女性にょしょう
と会う恋の殿堂とは、天来の契合けいごう
です。そんなふうに、一の門、二の門、三の門と、いちいち訪れて、いちいち許しをうけてから、入らなければ悪いようなものではありません。殿は、恋を、あとさきにしていらっしゃる。悪いことは申しません。とにかく、女体の夢殿へ、さきに参さん
じてしまうことです。女性の偽りない愛情やささやきが欲しいというお心なら、それは後から達せられますよ。── 今宵こそは、御勇気をふるって、ぜひ、てまえの申しようにお試みなされなせ。・・・・おう、星が見え出しましたな・・・・また、いつもの牛車雑色くるまぞうしき
に、ここまでそっと牛車くるま
をひき入れさせて参りましょう」 朱鼻あけはな
が、廊の橋を、渡りかけると、清盛も釣られ気味に起ち上がったが、呼び返して、こう、注意した。 「時子に、見つかるなよ。・・・・近ごろ、おれを見る眼が、どうも、うすうす気づいているらしく思われる」 「なんの、ご懸念に及びましょうぞ。もし。おたずねをうけたら、よいように申し上げます」 ほどなく、鼻はふたたび、薔薇園の泉のそばへ、牛車について、入って来た。 常盤通いの夜の供には、いつも顔の決まっている武者だけが従つ
いて行く。清盛の影が、夜遊びの放蕩児ほうとうじ
のように、すばやく簾れん の内へかくれると、心得顔に、供武者たちは、忍び牛車ぐるま
のまわりを囲んだ。そして性急に、河原門の外へ牛を追い出して行くのだった。 |