朱鼻
は、酒興に寄せて、ときどき、思い切ったことを言う。 ところが、清盛には、そう面めん
と向かって、言われるのが、愉快であった。 「こうおれの前で、おれをこきおろすやつは、ほかにはいない」 と、信寵しんちょう
の度を増したりする。 特に、鼻は、清盛の常盤通ときわがよ
いを嗅か ぎつけている点で ──
今は隠れもないことだが ── おそらくたれよりも早かったろう。そしてついには、清盛の忍び牛車ぐるま
の護衛までが、このごろは、彼の任になっていた。 世評は、ふんぷんと、鼻の耳に、入る。 鼻はまた、それを、ちらちら、清盛の耳に入れる。たとえば、こんな風に、ちまたでは言っているのだ。 (──
あわれ、常盤ときわ 御前ごぜ
は、あきもあかれもせぬ義朝どのに死なれ、三人の和子わこ
のお命を助けたいばかりに、眼をふさいで、六波羅どのへなびかれたそうな。さても、六波羅どのの、すさまじいお好色すき
ごころよ。人なみならぬ欲情のお人の閨ねや
にもてあそばれて、心にもなく、無念の黒髪を噛か
まされる常盤御前のくちおしさは、どれほどぞや) 世人の想像はこうなのである。いや、微に入り、細をうがち、もっともっと、自分たちの本能も加味して、事実らしさを、創作しあい、やがて事実としてしまっている。 ところが。 鼻の観察では、世評の一端は、本当だが、大部分は本当にまではなっていない。世評は世評自体の希望を語っているのである。 かつての法皇上皇たちの女房通いや、大臣おとど
、親王、公卿などの恋愛遊びも、数知れぬほど、見つけている世間である。清盛と常盤の問題にしても、これを 「女の道にそむく」 だの、 「人としてあるまじき不倫ふりん
」 だのという、道義にあてはめて、非難しているわけではない。 一夫多妻が、ふつうとされていた男女制度の下である。またそれを、不平ともなんともしない社会約束の下の男女であった。 問題は、どこまでも、心である。ちまたの話題もそれだった。相互の心の状態が、どう闘いあって、あるいは、折れ合っていたかが、諸人の関心になったのである。 もう年月はたったが、保延ほうえん
のころ、渡辺渡わたなべわたる
の妻、袈裟けさ ノ前まえ
は、遠藤盛遠に言い寄られて、女の操を守るためにはと、みずから死を選んで、世の男たちを、慄然りつぜん
とさせた。 これは、それまでの女性が余り心に持っていなかった女性の自由と貞操の勝利に、虹にじ
のような、花環はなわ をかけた。──
以来、貞操の観念に、女性も男性も、潜在的に、いくらかでも、考え方の影響を受けていたことは否いな
めない。 世間はなお、その袈裟事件を忘れていないので、常盤の場合にも、 「こうあって欲しい」 とする理想を描いた。それには、袈裟には、子がなかったが、常盤には三人の子どもがある。──
世人は彼女にも、袈裟に劣らない、賛美と同情を、そそぎたいのである。 清盛にたいしてはというと。 これには、その時代の男女性を通じても、たれひとり、共鳴者などは、ありえない。 弱い女性と、権力の人、敗やぶ
れた将の想おも い女もの
と、勝利者の大将。二十三の若後家と、四十四という男ざかり。どこを見比べても、庶民の感情から反目されるものが清盛の方にある。たれも知ろうはずのない閨房けいぼう
の秘戯ひぎ についてまで、異常な人のように、彼が取沙汰とりざた
されるのも、常盤をして、自分たちの理想の女性にしてしまわねば気のすまない世間の妙な同情の一辺倒によるのであった。 |