〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/03 (金) はる だい (二)

新しく土木させた庭園と、それらの泉石にふさわしい渡殿造わたどのづく りの離亭はなれ とが、六波羅てい 拡張の設計の一部として、もう二、三ヶ所にできかけている。
その一つを、蓬壷ほうこ (よもぎのつぼ) と称び、もう一つの庭を薔薇園しょうびえん (ばらのその) と名づけた。
「朱鼻。なかなか いな、ここの居心地は。── 薔薇園は気に入った」
「さようでなくてはなりますまい。河原の左大臣のお庭とて、よも、かほどではなかったかと思われます」
「はははは。大自慢よの」
「この造庭にも、御普請にも、まずは、てまえの考案が、あらまし御採用を得ているのですからな」
「ははは、鼻も、今日は、はな 高々たかだか だわい」
「いえ、はな 朱々あかあか です。万一、お気に召さなかったひには、鼻白むところでしたから」
「この男、自分の鼻で、洒落しゃれ をいうわえ。いい気なやつ。そちと話してると、憂いを忘れる」
清盛は、木の香も新しい薔薇園の一亭で、五条の伴卜ばんぼく をあいてに、余りには飲めない酒を みながら、うすづく春の夕雲を見ていた。
(ふしぎに、人の心を読み、ふしぎに、人の心を、くもてあそ ぶやつ)
清盛は、この男を、そう観ている。利にかけては、目から鼻へ抜けるようなさと いやつ。従って、気はゆるせない。
そう、警戒はしているのである。一雑色ぞうしき からにわかに大商人おおあきんど に成り上がった曲者くせもの という点も観察には れていた。
けれど、妻の時子が、余り めるままに、一度会ってみてから、彼も、この奇妙な鼻の持ち主を、時子以上に、いつか信用していた。いや愛する気持さえ加わった来ている。
面白い人間、持ち味のある男、というばかりでなく、清盛に最も欠けている 「計数」 の頭脳においては、一族の内でも、他に見当たらない才能の持ち主でもある。
また、先の平治の乱では、経宗や惟方これかた などの寝返り者と六波羅との間に立ち、じつに機敏な連絡の役わりと隠密的おんみつてき な働きをも、立派にやってのけている。
以来、清盛は、
(珍重すべき者 ──)
として、何かと、座室に近づけていた。
事あるときにもよし、憂いにもよし、退屈な相手にもよし、七味湯しちみとう でも一ぷく むように、おりにふれては、 「鼻を呼べ」 と、呼びにやる。
今日も、そんなことだったろうか。鼻もだいぶ杯をすごして、鼻頭びとうしゅ を、満面に散らしていた。
「ほ。・・・・憂いをお忘れになると仰せられますか。憂いをな。・・・・ははあ」
「何を嘆息するのか」
「殿にも、憂いなどというものが、おありかと」
「たわけ者よ。清盛とて、人の子ぞ」
「いつでしたか、天地の生んだ一個の者とたら、伺いましたが」
「それは、いってみるだけのことだよ」
「いや。てまえとしたことが、愚かでした。おん憂いのたねは、よく分かります」
「なんであるか、知っているか」
「人の子には、ありがちなことでしょう。わけても春。いかがですか、殿」
「ま、その辺かな」
清盛は、笑った。どこやらに、力がない。自嘲じちょう といったような顔つきである。
「じつに、てまえも、こんどだけは、意外でした。殿を、お見損ないいたしました」
「なんで」
「余りな、お気の弱さにです」
と、鼻は露骨に、清盛を冷笑して、なおいった。
「なんたることでしょう。意気地のないその御憂鬱ごゆううつ は。日吉ひえ 山王さんのう神輿しんよ にさえ、不敵な矢を射たほどな殿がです。ましてや、平治に御武威を示されてから後は、あました 、たれが殿に並び得ましょうか。その殿が・・・・その の子が・・・・あははは の子とも申されませんな。そんなお気弱では」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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