「尼公さま、では、伊豆へ下
ります。 頼朝は、彼女の前に、手をつかえた。禅尼のまつ毛に、涙が見えた。 「・・・・伊豆へ行っても、御恩は忘れません。命の親と思っております。朝夕、禅尼さまのお幸さち
を、祈っております」 「おお、お立ちか。よう仰っしゃた。あなたの不思議なお命を護らせ給うたは、この尼ではない。御仏みほとけ
ですぞえ。・・・・ゆうべも尼がお話したように、行く末とも、心を御仏の教えに染めて、血ぐさい武門の業わざ
には、思いを断ち召されよ」 「・・・・ええ、わかりました」 「たとえ、どう、唆そそのか
す者があろうと、邪悪のささやきに、お耳をかし給うなや。・・・・そして、ひたすら、亡き母者ははじゃ
や父御ててご の御ご
回向えこう に一生をささげ召されての」 「はい」 「成人の後までも、けさの尼の言葉を、お忘れあるなや。不逞ふてい
な企たくら みごとなどに乗せられて、二度と憂き縄目なわめ
になどかからせ給うな。ゆめ、尼が心を、無む
になされまいぞ」 「はい。・・・・ はい」 「素直やのう。・・・・ それ、約束の双六箱すごろくばこ
ぞ。うれしいか」 「ア。きれいな蒔絵まきえ
の箱。開けて見ても、ようございますか」 「ホホホホ。いま見ている暇はあるまい。・・・・ のう、宗清」 「されば、もう旅行李たびごり
など、荷駄にだ の背へ、積み始めておりますゆえ、それも、荷のうちへ、壊こわ
れぬようにおさめましょう」 「そうした方がいお。・・・・それよりも、立ち際ぎわ
に、ぜひ、あなたに会わせて欲しいと、尼のもとへ、願い出ている者が、あれなる下屋しもや
の内に待っておいやる。その者たちへ、ひと目、名残をおしませてあげたがよい」 「え。わたくしに」 頼朝は、はっと思った。ほんとの悲しみが、体のどこかで、しゅんと、傷いた
んだ。── が、たれだかは、下屋へ行ってみるまで、分からなかった。 「・・・・おお」 そこに控えていた三人が三人とも、頼朝の姿を見たとたんに、無量名な思いをたたえた顔にタラタラと涙のすじをかいた。 ひとりは、義朝の戦いに反対して、合戦に加わらなかった亡母はは
の弟の熱田あつたの 大宮司だいぐうじ
裕範すけのり 。 次の者は、病やまい
のため、田舎に帰って、浪人していた纐纈こうけち
源吾盛安。 それと、もうひとりは、乳母の比企局ひきのつぼね
であった。 おたがいに、思いは、沸たぎ
りあふれてくる。── が、多くを言えない場所だった。 わざと、かたの如き言葉で、別れを惜しみ合い、無事を祈り合った。けれど、幼少の時から、頼朝に添い寝の乳を与えてきた比企局ひきのつぼね
は、 「せめて、お名残に、きょうのお髪ぐし
を上げさせてください。・・・・和子様、お髪を、わたくしに」 と、頼朝の背へまわって、背の下に、泣き沈んだ。 そして、涙ながら、頼朝の髪をなでた。髪の触感が、十数年前の思い出を一瞬いつとき
に喘せ きあげてくる。彼女は櫛くし
をあてながら、頼朝の耳もとへ、濡れた顔を寄せて、 「さだめし、お心細くおわそうが、決して、今日が最後ではございませんぞ。きっと、乳母が、いつかは伊豆へ、お尋ねしてまいりますぞえ」 と、ささやいた。 源吾盛安も、番の武者のすきを見て、つとひざをすり寄せ、頼朝の耳へ、小声で言った。 「御曹司おんぞうし
、御曹司。八幡はちまん 、不思議にも、助からせ給うたおん命です。たれに勧すす
められても、そのお髪ぐし を剃おろ
してはなりませぬぞ。よいですか。お髪を惜しみなされませよ」 頼朝は、乳母の手に、髪を梳す
かせながら、そら耳のように、天上を向いて聞いていたが、 「・・・・うん」 と、眉まゆ
の辺りで、うなずいた。 さきに、池ノ禅尼から、沙門しゃもん
にはいって、終生、仏の道を守りなさいよ、といわれれば、それのも 「はい」 と答え、いま源吾から、その反対を言われれば、それにも 「うん」 と、うなずいた。 |