〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/05/01 (水)  ぶえ (二)

「尼公さま、では、伊豆へくだ ります。
頼朝は、彼女の前に、手をつかえた。禅尼のまつ毛に、涙が見えた。
「・・・・伊豆へ行っても、御恩は忘れません。命の親と思っております。朝夕、禅尼さまのおさち を、祈っております」
「おお、お立ちか。よう仰っしゃた。あなたの不思議なお命を護らせ給うたは、この尼ではない。御仏みほとけ ですぞえ。・・・・ゆうべも尼がお話したように、行く末とも、心を御仏の教えに染めて、血ぐさい武門のわざ には、思いを断ち召されよ」
「・・・・ええ、わかりました」
「たとえ、どう、そそのか す者があろうと、邪悪のささやきに、お耳をかし給うなや。・・・・そして、ひたすら、亡き母者ははじゃ父御ててご 回向えこう に一生をささげ召されての」
「はい」
「成人の後までも、けさの尼の言葉を、お忘れあるなや。不逞ふていたくら みごとなどに乗せられて、二度と憂き縄目なわめ になどかからせ給うな。ゆめ、尼が心を、 になされまいぞ」
「はい。・・・・ はい」
「素直やのう。・・・・ それ、約束の双六箱すごろくばこ ぞ。うれしいか」
「ア。きれいな蒔絵まきえ の箱。開けて見ても、ようございますか」
「ホホホホ。いま見ている暇はあるまい。・・・・ のう、宗清」
「されば、もう旅行李たびごり など、荷駄にだ の背へ、積み始めておりますゆえ、それも、荷のうちへ、こわ れぬようにおさめましょう」
「そうした方がいお。・・・・それよりも、立ちぎわ に、ぜひ、あなたに会わせて欲しいと、尼のもとへ、願い出ている者が、あれなる下屋しもや の内に待っておいやる。その者たちへ、ひと目、名残をおしませてあげたがよい」
「え。わたくしに」
頼朝は、はっと思った。ほんとの悲しみが、体のどこかで、しゅんと、いた んだ。── が、たれだかは、下屋へ行ってみるまで、分からなかった。
「・・・・おお」
そこに控えていた三人が三人とも、頼朝の姿を見たとたんに、無量名な思いをたたえた顔にタラタラと涙のすじをかいた。
ひとりは、義朝の戦いに反対して、合戦に加わらなかった亡母はは の弟の熱田あつたの 大宮司だいぐうじ 裕範すけのり
次の者は、やまい のため、田舎に帰って、浪人していた纐纈こうけち 源吾盛安。
それと、もうひとりは、乳母の比企局ひきのつぼね であった。
おたがいに、思いは、たぎ りあふれてくる。── が、多くを言えない場所だった。
わざと、かたの如き言葉で、別れを惜しみ合い、無事を祈り合った。けれど、幼少の時から、頼朝に添い寝の乳を与えてきた比企局ひきのつぼね は、
「せめて、お名残に、きょうのおぐし を上げさせてください。・・・・和子様、お髪を、わたくしに」
と、頼朝の背へまわって、背の下に、泣き沈んだ。
そして、涙ながら、頼朝の髪をなでた。髪の触感が、十数年前の思い出を一瞬いつとき きあげてくる。彼女はくし をあてながら、頼朝の耳もとへ、濡れた顔を寄せて、
「さだめし、お心細くおわそうが、決して、今日が最後ではございませんぞ。きっと、乳母が、いつかは伊豆へ、お尋ねしてまいりますぞえ」
と、ささやいた。
源吾盛安も、番の武者のすきを見て、つとひざをすり寄せ、頼朝の耳へ、小声で言った。
御曹司おんぞうし 、御曹司。八幡はちまん 、不思議にも、助からせ給うたおん命です。たれにすす められても、そのおぐしおろ してはなりませぬぞ。よいですか。お髪を惜しみなされませよ」
頼朝は、乳母の手に、髪を かせながら、そら耳のように、天上を向いて聞いていたが、
「・・・・うん」
と、まゆ の辺りで、うなずいた。
さきに、池ノ禅尼から、沙門しゃもん にはいって、終生、仏の道を守りなさいよ、といわれれば、それのも 「はい」 と答え、いま源吾から、その反対を言われれば、それにも 「うん」 と、うなずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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