〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/05/01 (水)  ぶえ (三)

「時刻だな。そろそろ」
護送使のたいらの 李通すえみち は、床几しょうぎ を離れて、やおら馬上になった。しして部下へ手を振った。
「用意。出立の用意」
荷を積み終えた荷駄馬は、道に並び、割り竹を持った下司げす たちは、その割り竹で見物人を追い払う。
護送の兵も、追立おったて の役人も、列を して、頼朝の馬を、門前にひき、
「お出ましなされい」
「はやはや、急ぎ候え」
と、口々に、たち の内へ、催促した。
やがて、花に包まれたそこの花の門から、小さな囚人めしゅうど は、たち の人びとに見送られて、往来へ出て来た。
配所へ送られる流人るにん といえば、例外なく、暗い影と、涙もかれ果てたような憔悴しょうすい を持っているものだが、今朝の囚人めしゅうど は、まったく、るいこと にしていた。
余りにも、明るい、余りにも、ぴちぴちしている。
大人おとな たちが感じている別離の思いや、深刻な表情などは、まるで、自分とは無関係なものみたいに、頼朝は、前へ寄せられた馬の背へ、すぐ、ごび乗った。そして、
「・・・・さようなら」
と、舘の方へ向かって、くら の上から、ていねいに、お辞儀をした。
その顔も、ニコとして。
大勢の中には、禅尼も見え、頼盛の家族も見え、女房たちも、たくさんにいた。その人たちは、頼朝がニコとしたのに、かえって、反射的に、みな涙を眼にためた。
「和子よ、おからだを、大事にめされよ」
「和子よ、おさらば」
ふしぎに、この少年には、人から愛される何かがあった。天性、人をひきつける笑靨えくぼ をもっていた。
が、頼朝は、それらの大勢を、よそ眼に、門のわきにいた一人へ向かって、
弥兵衛やひょうえ 、おさらば」
と、もいちど、頭を下げた。
凝然ぎょうぜん と、そこに立っていた弥兵衛宗清も、
「おさらば」
と、静かに答えて、頭を下げた。
列は動き出した。
そのあとを、そよと、花びらが舞い、白々しろじろ とした道だけが残った。
(大津までなら)
と、特に許されて、囚人めしゅうど の叔父裕範すけのり と、源吾盛安のふたりは、列のあとから、追って行った。
粟田口あわたぐち あたりを上ってゆくころ、春の日はもう高かった。都の屋根も、北山や、東山も、眼をやるところ、花の雲の見えない所はない。頼朝は、加茂川かもがわ の水を、何度も振り返った。そこの河原で、父や兄とともに、戦った日を、どう胸によび返していたろうか。
やがて、大津の浜で、船に乗りかえる時、裕範と源吾の二人が、そばへ来て、
「では、お見送りも、これまでです。くれぐれも、お身を御大切に」
と、さすがに、嗚咽おえつ をのんで、別離を嘆くと、頼朝は、 「なぜ、泣くのか」 ろ怪しむように、
「わしは、悲しくないよ。なぜなら、世の常の流人るにん は知らず、頼朝の場合は、大きな歓びだもの。今日は、希代きたい吉日きちにち ではないか」
と、言った。
うわさを伝えて、湖畔には、黒山のような人が、船出を見ていた。僧俗、男女、旅人、老幼、みな頼朝の姿一つを見まもっていた。その中には、せきの平治の合戦に、負け散って、農民や漁師のうちに身を潜めた源氏武者の果ても じっていたにちがいない。ただきょう がって見物しているにしては、余りに生々なまなま しい多感を込めて、現実の啓示に無言をまもっているようなひとみ もあった。
けれど、はつらつたる小さな囚人めしゅうど は、そんなことにも、ほとんど、無関心のさま だった。
船が、湖上へ出ると、彼はさっそく、禅尼から贈られた双六箱すごろくばこ を取り出して、ひとりで、遊びはじめた。そして、
李通すえみち 。すごろくを、やらぬか」
と、彼を相手に求めたりした。
護送使の李通は、にが笑いして、
「あなたは、囚人めしゅうどですぞ。李通は、役人です。しこしはおつつし みなさらぬと、掟にてらして、罰しないわけにはゆきません」
「すごろくは、いけないのか」
遊山ゆさん の旅と間違え召さるな。伊豆へ着いても、あなたは、きびしい監視の下におかれる囚人めしゅうどなのだ」
「では、配所へ着くまで、仕舞っておけ」
散らかした双六道具の始末を、頼朝は、ぷいと、ほかの役人に、いいつけた。
「どうも、人みしりをしないわっぱ だ」
と李通は、あきれた。しかしその後もである。東海道の長い毎日の旅をゆく間に、役人たちへ、途々みちみち 、双六ばなしをしかけたり、馬上からいきなり、木の葉をむしり取って、ピイピイ吹き鳴らしたりする行いを見て、
「ははあ、しこし、ばかなのかな?」
と李通は、やっと結論を得たようにいなずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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