〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/29 (月)  ぶえ (一)

花の蔭は、まだ暗かった。一かたまりの兵や追立おったて の役人が、桜並木の馬をつな いで、夜明け前からたむろ していた。
道の前はすぐ池殿の築土ついじ である。
邸内にも桜が多い。白い雲を吐こうとしている谷のように暁闇ぎょうあん をまだらにしていた。
たち の人々は皆もう起きているらしく、忙しげに渡殿わたどの を行き来する紙燭ししょく の光が花の間をチラチラする。
「夕べは、よくお れになりましたか」
きょう三月二十日。
頼朝は、いよいよ伊豆の配所へ、送られることになった。
宗清は、早暁そうぎょう に頼朝の囲いへ来て、彼の身のまわりまどを見てやりながら、そうたずねた。
「うん。寝たけれどね、うれしくて、けさは、ずいぶん早く眼が醒めてしまったよ。自分でしとみ をあげたら、まだ月が明々あかあか としていたもの」
「ははは。ではまだ夜半よなか だったのでしょう。また途中で例の “馬眠り” などなさらないように、お気をつけなさることですな」
「いいえ、。弥兵衛やひょうえ 。こんどは、馬眠りしても、大丈夫だろうよ」
「どうしてです」
「付いて行く役人が、決して、わしを迷子まいご には、させっこないもの」
「まことに、、それに違いありません」
宗清は、はら から笑った。
こういう冗談が、けさ、頼朝の口から出るのも、よほどうれしいからにちがいない。
籠の鳥が青空へ放たれてゆく思いにも似よう。わけて十四の少年だ。 「さも、あろう」 と宗清までが童心の喜びに られて、明け放れる花のあした が、何か、家の祝日みたいに錯覚されてくるのである。
やはて、青侍が、端へ来て、
「お風呂ふろ へ」
と、頼朝を連れて行った。
まもなく、彼は、つやつやと、赤い果物みたいなほお になって、湯殿から上って来た。衣服は下から上まで、新しいのを着がえていた。── これも、池ノ禅尼の情けによる物だった。
「出立の前に、もいちど、尼のところへ、お礼もいったり、お別れを告げて行きたいと思うけれど」
「おう、尼公にこう にも、そのおつもりでおられます。お食事がすみ次第、尼公のお住居の方へ、ご案内いたしましょう」
頼朝は、すぐぜん についた。
弥兵衛やひょうえ 。ここの御膳をいただくのも、けさかぎだね」
「何やらお名残が、惜しまれまする」
「わしも・・・・」 と、ふと、はし をやすめ 「弥兵衛。忘れないぞ」
「なんの。宗清がただお役目を勤めただけのことです。けれど、追立おったて の役人や警固の雑人ぞうにん たちには、親切な者のみはおりません。── たれか、道中だけでも、召し連れておいでになりたい御縁故の人でもあれば、お供に加えられるようお願いしてみますが」
「いえ、そんな者は、いません。いても、六波羅をはばかって、来ないでしょう」
「そう。かも知れませんな。・・・・では、お支度がよければ禅尼殿ヘ、ごあいさつに」
宗清について、頼朝は、百日ぶりに、囲いを出た。禅尼に住居は、頼盛の舘のうちに独立していて、華麗な御堂みどう のようであった。
夕べも、頼朝は禅尼に招かれていたのである。衣服やら旅の持ち物んど、何かと恵まれ、馳走ちそう にもなって、名残の一夜を過ごしたのであった。
尼は、自分の慈悲が届いた満足と、また、頼朝を近寄せて見れば見るほど、 き子の家盛と間違えそうな心理になって、
(なんぞ、欲しいものはないか。なんなりと、尼が餞別はなむ けしてしん ぜようほどに)
と、その上にも言ったりした。
頼朝は、はにかみながら、
双六すごろく をください。伊豆で、さび しいときに、双六をして、遊べるように)
と、ねだった。
禅尼の手もとには、あいにくと、双六はない。けれど禅尼は、けさまでに約束の双六箱をちゃんと調えて、頼朝が見えるのを、早くから待っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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