頼朝の助命を、彼が、許したのは、このことがあってから、十数日の後である。 池ノ禅尼や、頼盛、重盛などの乞
いに、あれほど、頑強がんきょう
だった清盛が、にわかに、おれたわけには、それ相応な理由がなくてはならない。 ただ、頼朝助命の発表と、常盤母子を、清盛が見た日時との関係が、史書や当時の人の日記でも、どうも微妙で、いずれが先か後か、明確でない。 けれど、清盛が、暮夜ぼや
ひそかに、小松重盛を呼びにやり、一室のうちで、こんなことでも言い出したであろうかという想像はつく。 「── なあ、重盛、考えたよ、おれも」 「どう、御決意あそばしましたか」 「義母はは
の尼どのが、あれほどまでに、子のおれに、おすがりしての御嘆願だ、思いきって、頼朝は助けてとらせよう」 「おう、では」 「が、遠島だな、なるべく遠くへ」 「もとより、死一等を減じられさえすれば、尼公にも、いかばかりお喜びか分かりますまい。御孝心によるものと、世上の人もみなありがたく思いましょう」 「いや、おれに孝心など、いささかもありはしない。母には、薄縁な生まれつきだ。しかし、おれも人の子の親、じつをいえば、人の子を殺したくはない」 「そうです。さきの保元の乱に、苛烈かれつ
にまで、日ごろの政敵や、縁につながる女子どもまで斬って世人の眉まゆ
をひそめさせた信西どのが、よい前例です。── 報むく
いは、眼ま のあたりに来て、次の乱には、信西入道自身も、家の子らも、皆殺しになりました。怖おそ
るべき、輪廻りんね です。悪因悪果です」 「説教はよせ。おれのは、慈悲でもなんでもない」 清盛は、まだ多少、禅尼や重盛にたいしての、負け惜しみをもっていた。 「とにかく、人間には、幼い者には、無条件で憐あわ
れみを抱くのが、人情だからな。ひとりの頼朝を斬って、万人のそしりを受けるのは、上策ではないということだ、決して人心を得るゆえんでない ── と考えての結論だ。頼朝の一命は、まず、助けてとらそう。流罪にする由を、お汝こと
から、池ノ尼御前あまごぜ にも、お伝えしてくれい」 「慈悲でないと、謙虚に、仰せられますが、それこそ、大慈悲心と申すものです。さっそく、池ノ尼公へ、お聞かせして、およろこびを拝してまいります」 重盛は、すぐ牛車を、池へ急がせた。 すると、幾日かを経て、こんどは、六波羅の内から、常盤母子の赦免しゃめん
が ── 触れだされた。 これには、たれも驚いた。一族重臣も、みな、意外な処置として、 「どうして、お助けなされたのですか。末始終、平家の禍わざわ
いともなりましょうに」 と、面おもて
を冒おか して、中には、清盛へただす者もあった。 清盛は、それにたいして、平然と、こういい払った。 「──
と、おれも思うが、朝敵の子の処断は、朝議によることで、清盛は、その執行を承っただけのことだ。わけてもさきには池殿の御嘆願にて、年上の頼朝すら、助けおかれた以上、より年下の乳ぐさい子たちを、斬る理由もないではないか」 しかし、彼の言葉は、詭弁きべん
に過ぎないことを、やがてたれも、感づいた。 常盤ときわ
御前ごぜ のいる景綱の屋敷へ、花おぼろな夜々、清盛の牛車が、春の月のかたむくまで、忍んでは、戻って来ると、たれともなく、六波羅附近の下部しもべ
あたりから、言い出されて来たからである。 |