〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/27 (土) ぞく常 盤 ときわ ぞう (三)

「悲しいのか。・・・・常盤」
「い、いいえ、もう、涙はかれ果てました。ただ、獄舎ひとや の老母を、お放しくださいませ」
「ム。放してやる」
清盛は、明瞭めいりょう に言った。つづいて、
「今まで、どこに隠れていたか。また、なんの目的で幼子おさなご たちを、抱いて逃げまわったか」
と、問いただした。
「はい、大和の龍門に、おりました、和子たちを手離さないのは、世の母と、変りもない、あたりまえに気持としか、お答えのしようもございません」
「都へ帰って来たわけは」
「老母の命に代りたいためです」
「牛飼親方の伯父とやらが、密訴して出たが」
「いいえ、わたくしは、自分で名のり出たのでございます。伯父はどう申し出たか、分かりませんが」
「そうだろう。いや、さなくても、都へ帰って来るばかはない」
清盛は、うなずいた。そして、母子のさまを、しばらく見入っていたが、不意に、
「乳は、出るのか。乳は」
と、たずねた。
常盤は、ふところの子を、のぞきこんだ。声もなく、顔を、かすかに振ってみせる。
「あまり出ないのか。いや、さもあろう」
清盛はひとり喞って、何か、遠くを思うような顔をした。
「女親とは、おろかな者よ。ない食べ物も、あるように見せ、良人おっと に食わせ、子に食わせ、そして、あか児には、乳を、せびられる。・・・・まして、野や山を、逃げさまようながら、よく、乳のみも、死なせずにいたものよ」
「・・・・・」
「常盤よ。こわがることはない。いくさ は、清盛と義朝のしたことだ。女の和御前わごぜ に、とが はない」
「・・・・はい」
「惜しむらくは、義朝ほどの男も、身に不平を抱いたため、青くさい公卿くげ ばら に乗ぜられ、政略もなく、一敗地に、敗れ去った。この清盛をも見損にそこの うての」
「・・・・・・」 常盤は、堪えられなくなった。がば、とうつ伏すと、やはろ女でしかない身をふるわせて、人目もなく、よよと泣いた。
「も、もしっ・・・・大弐だいに さま」
何か、彼女は、訴えかけた。
清盛は、彼女のまゆ に、ふと、気をとられ、深い睫毛まつげ のべっとり泣き濡れているのが、そのまゆ を、世にもないほど、多感な象徴に、見せていた。いや、彼の多情が、そう見たのだった。
「悲しむことはない。常盤ときわ 御前ごぜ 、武門の合戦は、女どもが、あずかり知らぬことだ。和御前わごぜ が、名乗り出た以上、老母も、放してくれる。また、そなたの罪もとわぬ。泣くな、和御前は、斬りはせぬ」
「いいえ。いいえ・・・・」
と、常盤は、円座をすべり出て、なお必死に言った。
「この身の命など、ゆめ、惜しいとは思いませぬ・・・・どうぞ、そのお慈悲をもって、この和子たちの、お命を」
「なに」
「お慈悲です。・・・・大弐さま、和子たち三人のお命を、おたすけくださいまし。常盤の身は、河原で斬られましょうとも」
女臈めろう っ、 にのるなっ」
清盛は、まるで、別人のような語気を発して、彼女の身がしびれるほど、どなりつけた。
「あわれをかければ、しぐつけ上がる。女どもの憎いくせだ。そちはもとより九条院の雑仕女ぞうしめ 、義朝に愛されたとはいえ、うじ もない門外の花にすぎぬ。けれど、子は正しく、源家の血をひいた の子ばかり。助けおくことは出来ぬ。── 助けるなど、もってのほかな」
一語をしおに、清盛は、座を立った。しかしなお、広床ひろゆか に見える黒髪から、にわかに眸を離しがてににらみすえて、
「そちも、義朝とともに、この清盛を見損なうか。清盛は、慈悲ぎらい、だい の無慈悲だ。 ── 景綱、時忠」
「はっ」
「女やわっぱ どもを、下屋しもや退 げろ。もう、糾問きゅうもん もすんだ。これくらいでいい」
言い捨てると、彼は左右の侍者じしゃ が追うのも待たず、さっさと、対ノ屋を渡って、奥ふかく隠れてしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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