〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/26 (金) ぞく常 盤 ときわ ぞう (一)

ゆうべ、清盛は余り寝なかった。べつに、なぜということもなく。
しいて、理由を求めれば、このところ、少々、政務づかれもある、参内しても、まだ閣議や内裏の故実こじつ不馴ふな れな彼は、なんとなく、よけいな気もつかう。
一見、しちめんどうな旧例などには、無頓着むとんじゃく なようでいて、じつは、細心なのが、彼の彼たる表裏である。── そいう性情から見て、池ノ禅尼や小松重盛の慈悲攻めがなくても、頼朝の処分だの、また、ゆうべは、常盤とその子たちの所在の密訴を聞いたりして、なんとなく、熟睡できなかったような心事もあり得なくはない。
「時忠。・・・・見たか」
「と、彼はひる ごろ、唐突とうとつ にたずねた。
景綱屋敷からの らせによって、時忠は、常盤母子の収容をそこに見届け、いま戻って来たばかりである。
「はい、検分して参りました。仰せどおり、むご うはしてありません。一室へ囲い入れて、武者どもを立たせてありました」
母子おやこ とも、つつがないか」
「乳のみ子が、おりおり泣きますし、常盤の容色も、さすがに、やつれては見えましたが」
「ひところは、義朝との浮名をうたわれ、京雀きょうすずめ にも、公卿輩くげばら にも、そねまれたほどであったが」
「まだ、二十三ですのに、三人の母となり、野に飢え、伏屋に隠れて来たので、あわれ、見る面影もあるまいと思いましたが・・・・九条院のお情けで、髪から衣裳いしょう まで、よそおにお やかにして来ましたので、よけいに、不愍ふびん さを誘われました」
「そうか。ふうむ・・・・」
「ところで、お取調べは、どうなされますか。吟味ぎんみ も、景綱かわたくしがいたして、文書もんじょ として、お目にかけましょうや」
「いや」 と、彼はすぐに首を振った。 「おれが直々じきじき に、問いただそう。ほかならぬ。義朝のたね 、しかも男の子ばかり三名の処置、これは、おれがやらねばなるまい」
時忠は頼朝の問題のもつれを、うすうす耳にしていた。── これは、池ノ禅尼などのような、差し出口のないうちに、清盛が、果断を下すものであろうと察して、
「いつ、これに、ひきすえましょうか」
と彼の大きくむすんだくち もとを仰いだ。
「早いがいい。夕までに」
「かしこまりました」
時忠は、その手はずに、退 きさがった。
おりふし、ちょうど、来客があった。
例の磊落らいらく な人物、藤原伊通ふじわらこれみち である。── 伊通は、事件を聞いて、さっそく、九条院のために、清盛が誤解することのないように、陳弁ちんべん に来たものらしかった。
「いや、清盛は、そんな猜疑さいぎ は、みじんも持っていません。あなたらしくもない御心配だ。それよりも、あなたのように、殿上のことに明るい上卿は、こんな時こそ、大いに、時務や政幣せいへい の刷新に、お心を傾けてください」
と、あん に将来、片腕ともたの むような意中をほのめかして、大いに、もてなして帰した。
事実、清盛は、伊通の磊落な性格が好きだった。伊通も、自分に対して、好意を寄せて来たものと、 ている。客が客だったので、思わず杯をかさね。昼のせいか、伊通を送り帰した後までも、酔いを覚えていた。
そこへ、景綱と時忠が、並んで出て、
「仰せ付けのように常盤母子を、門罪所の庭先まで、ひきすえました」
と、告げて来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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