〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/26 (金) 女 ぐ る ま (三)

その朝、常盤はひと夜を、あたたかい人々の中に寝て、何か、世の名残を惜しみつくしてような自分を見出していた。
早朝に、湯浴ゆあ みもすまし、髪も いた。そして、櫛笥くしげ をひらき、今日を最後と思う化粧に、鏡へ向かったが、自分でも意外なほど、心は、乱れなかった。白粉おしろい もよくはだ にのびて、気持ちよく、化粧が出来た。
「おかあ様。どこへ行くの」
久しぶりに化粧する鏡の中の母をのぞき込んで、今若がそばから甘えかかった。
「よいよころへ。・・・・和子も、一緒に行きましょうね」
「うれしい」
と、今若は、はしゃいだ。
牛若と乙若とは、その無邪気さをいと しがる女房たちが、ほかの局へ抱いて行った。常盤は、子たちが側に見えないと、片時の間も、はだ さみしかった。女院からいただいた肌衣はだぎ下衣したぎ上衣うわぎ などの装束を着襲きかさ ねて、やがて、もういちど、女院のおん前に出、
「身は、露と消え果ましょうとも、年月としつき の御恩と、ゆうべからのお情けは、いつまでも、忘れません」
と、礼をのべた。
女院の呈子の君は、そっと、声を落として、
「覚悟はよいけれど、余りに、思いつめぬがよい。父の伊通卿これみちきょう にも、よそながら、なんとか、六波羅殿のお心がやわらぐように、お願いをしてあげるからね」
と、なぐさめた。
朝餉あさげ は、局の女房たちが、今若と乙若を中心に、皆して、給仕してくれた。子どもらのはしゃぎ方に、たれも涙をさそわれた。
常盤は、牛若に心ゆくまで、さいごの乳を与えていた。努めて、ゆうべは食べ物を ったせいか、めずらしいほど、乳もよく出る。
中門の外で、景綱の郎党が、やや言葉を荒げて、催促していた。
常盤ときわ 御前ごぜ には、何してぞ。余りに時過ぎては、六波羅殿へもはばかられ申す。早々渡られよ」
あわただしく、院の家司けいし が、奥から駆けて来て、景綱へ、直接、何か交渉していた。
女院のお心遣こころや りから、常盤母子に、牛車くるま を与えよという仰せが出た、どうか、許して欲しいというのであった。
「いいでしょう。囚人めしゆうど としては、例外ですが、乳のみや、幼いお子たちのために」
景綱は、ゆるした。
程なく、西の裏門から、一つの女車が、ひかれた。常盤は、れんうち から女院の大屋根を、伏しおが んでいた。やがて、きびしい武者の列は、女車の前後をかこんで、その朝の大路小路を打たせて行った。ちまたにたたずむ人びとも、かつての左馬頭義朝の愛人と、わすれがたみの雛鳥ひなどり たちが、乗せられて行く車とは、気づかなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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