その朝、常盤はひと夜を、あたたかい人々の中に寝て、何か、世の名残を惜しみつくしてような自分を見出していた。 早朝に、湯浴
みもすまし、髪も梳す いた。そして、櫛笥くしげ
をひらき、今日を最後と思う化粧に、鏡へ向かったが、自分でも意外なほど、心は、乱れなかった。白粉おしろい
もよく膚はだ にのびて、気持ちよく、化粧が出来た。 「おかあ様。どこへ行くの」 久しぶりに化粧する鏡の中の母をのぞき込んで、今若がそばから甘えかかった。 「よいよころへ。・・・・和子も、一緒に行きましょうね」 「うれしい」 と、今若は、はしゃいだ。 牛若と乙若とは、その無邪気さを憐いと
しがる女房たちが、ほかの局へ抱いて行った。常盤は、子たちが側に見えないと、片時の間も、肌はだ
さみしかった。女院からいただいた肌衣はだぎ
、下衣したぎ 、上衣うわぎ
などの装束を着襲きかさ ねて、やがて、もういちど、女院のおん前に出、 「身は、露と消え果ましょうとも、年月としつき
の御恩と、ゆうべからのお情けは、いつまでも、忘れません」 と、礼をのべた。 女院の呈子の君は、そっと、声を落として、 「覚悟はよいけれど、余りに、思いつめぬがよい。父の伊通卿これみちきょう
にも、よそながら、なんとか、六波羅殿のお心がやわらぐように、お願いをしてあげるからね」 と、なぐさめた。 朝餉あさげ
は、局の女房たちが、今若と乙若を中心に、皆して、給仕してくれた。子どもらのはしゃぎ方に、たれも涙をさそわれた。 常盤は、牛若に心ゆくまで、さいごの乳を与えていた。努めて、ゆうべは食べ物を摂と
ったせいか、めずらしいほど、乳もよく出る。 中門の外で、景綱の郎党が、やや言葉を荒げて、催促していた。 「常盤ときわ
御前ごぜ には、何してぞ。余りに時過ぎては、六波羅殿へもはばかられ申す。早々渡られよ」 あわただしく、院の家司けいし
が、奥から駆けて来て、景綱へ、直接、何か交渉していた。 女院のお心遣こころや
りから、常盤母子に、牛車くるま
を与えよという仰せが出た、どうか、許して欲しいというのであった。 「いいでしょう。囚人めしゆうど
としては、例外ですが、乳のみや、幼いお子たちのために」 景綱は、ゆるした。 程なく、西の裏門から、一つの女車が、ひかれた。常盤は、簾れん
の裡うち から女院の大屋根を、伏し拝おが
んでいた。やがて、きびしい武者の列は、女車の前後をかこんで、その朝の大路小路を打たせて行った。ちまたにたたずむ人びとも、かつての左馬頭義朝の愛人と、わすれがたみの雛鳥ひなどり
たちが、乗せられて行く車とは、気づかなかった。 |