〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/25 (木) 女 ぐ る ま (一)

常盤ときわ の母の草庵そうあん は、六条のはず れにあった。
もちろん、老母はせでにいないし、家の中の物も、浮浪者に荒されて、何一つ残ってはいなかった。
「まあ、ここでひと晩、落着くがいい。そのうえで、自首して出ても、遅くはあるまい」
伯父は、常盤と三人の子を、牛車の箱から抱き降ろした。旅の間に用いていた夜具だの食器類だの、貧しい手まわり物も、空き家の中へ運び込んだ。
「しょうがねえな。親鳥も子鳥も、めそめそピイピイ泣いてばかりいやがって、おおかた腹が減ったんだろう。まあ待て、何とかしてやるから」
街から食べ物を買って来て、伯父は自分で煮炊にた きし始めた。路傍の飢えに、施しでもするように、それを、あてがって、
「さ。食べろ、食べたら、ピイピイいわずに寝るんだぞ」
と、今若や乙若をしかりつけた。そして自分は、牛飼うしかい 町の仲間の家まで行くといって、出て行った。
常盤には、伯父の目的が、何にあるのか、今は、余にも分かっている。── 伯父の強欲をみたすために、大事な和子たちを抱いて、自首して出る。── どう考えても、浮かぶ瀬がない。くちおしさの、やりばもない。
といって、自首して出なければ、老母の一命が、あやぶまれる。いや、六波羅へ名のり出る出ないにかかわらず、この幼い者たちを、手に引いたり、ふところに抱いていては、のが れる道など、ありようもない。
「いっそ、ひと思いに・・・・」
と、彼女は幾たびも、母子四人の死を考えた。けれど、合戦の勝敗が見えた日の夕方、義朝が、最後によこした手紙の中の言葉が、そのたび、思い出されて来る。

── むねんや、いくさに負けをはんぬ。いまは、ひと目の別れもかなはで、何地いづち ともなく落ち行くぞかし。
さあれ、いつかは、安き所を得て、迎へ取るべき日もあるなむ。たとへ深山みやま に身は隠すとも、乳子ちご らを守りそだててよ。たのみまゐ らす一儀に候ふぞや。
幾山川いくやまかわ はへだつとも、わごぜ恋しのおもひを、 わす らるべき。世をはかな みて、いのちあだに せ給ふなどの事、ゆめ、あるまじう祈られ候ふ。
観音経かんのんぎょう の一部のように、彼女はその文言を暗記あんき した。 「命こそ。この命こそ、和子を守るもの」 と、死の誘惑にささやかれるたび、護符ごふ として、胸に、読み返すのであった。
けれど、今は、あらゆる望みも絶え果てた。その人も世を去ったし、自分も明日を限りの身である。
「オオそれよ、十四の年から側近そばちこ こうお仕えした御方に、今生こんじょう のお礼も申し上げたり、よそながらのお別れでも告げて・・・・」
常盤は、にわかに思い立って、伯父が帰らぬうちにと、牛若を抱き、今若、乙若の手をひいて、ふと、たそがれのちまたへ出た。
九条院は、そう遠くない。
彼女は勝手もよく知っている。また、下部しもべ たちとも顔見知りである。人目だたぬ西門からそっと入って、召次めしつぎつぼね を訪ね、むかし じみの女房たちに取り囲まれた。
さすが、以前には 「義朝のおも われびと よ」 と、ねた んだりそねみ・・・ 口をきいていた朋輩ほうばい たちも三人の子を連れた常盤のうらぶれた姿を見ては、
「まあ、どこをどう、さまようて、おわせられてぞ。可憐いじら しの和子たちやの」
と、口々に、いた わりなぐさめて、女は女同士の、もらい泣きに、そで をぬらさぬ者はなかった。
女院も、やがて、奥のとばり へ、常盤を招き入れて、
「おおなんと、。変わり果てたことよ。なぜ早くここへはのが れて来なかったのか」
と、やさしい言葉の下に、ともども、涙を流して、同情した。それとともに、九条院の内には、一面何やらほっとしたような空気も漂った。
なぜなら、六波羅の疑いが、ここに向けられないはずはない。
女院に仕えて、長年、愛されていた常盤である。ここにかく まわれているのではないかという疑惑は、十もく 十指、たれもがすぐ思うところだった。
ことに、女院の呈子の父君は、よく諧謔かいぎゃく ばかりいっている例の藤原伊通ふじわらこれみちく である。あの磊落らいらく な伊通卿にまで、もし御迷惑をかけては ── と、ここの家司けいし たちは、六波羅の思わくを、深く憂えていおたおりである。
「まあ、よかった。これで、六波羅殿へたいしても、女院の御潔白が、明らかになる」
家司、侍たちが、愁眉しゅうび を開いたのは、そうしたからであったが、同時に、
「さすがは、常盤ときわ 御前ごぜ よ、主家のるい を思うて、今日まで、よく他に姿を隠していてくれた。まして、さいごのおいとま ごいだけに、女院をお訪ねして来たとは、なおさら可憐しおら しい心根 ──」
と、いい合って、かれらもみな、常盤母子に、一しお同情した。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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