〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/25 (木) 常 盤 ときわ ぞう (四)

すると、ある日、巨椋おぐら の伯父が、ここへボロボロな牛車をひいて、訪ねて来た。その晩は泊って、地蔵堂の僧と、おそくまで、話し込んでいたが、翌る日、常盤に向かって、こう説いた。
「こんな所に、いつまで隠れおわせるものじゃあない。都へ帰っての思案とするこったな。・・・・もし、おまえが帰らずにいようものなら、おまえが、六条へ残して来た母親は、しばり首か、はりつけにされてしまうぜ」
「え。・・・・ど、どうしてです」
「どうしてって、あたり前じゃねえか。義朝の子を抱えたまま、おまえが、姿を隠しているから、その身代わりに、六波羅の問罪所へ、あげられてしまったんだ」
「えっ。母君が・・・・捕まっているのですか」
「そうさ、世間では、隠れもないことだ。おまえのことも、言ってるぜ。── 男の義朝と した子たちの可愛さに、自分の生みの母親は、忘れっ放しにしてるんだろうって」
「・・・・・」
牛飼い親方を渡世としているだけに、この伯父の眼は動物的である。涙というものは、なんなのか、知らないような、大きな出眼でめ であった。
その眼の前で、常盤は、泣き伏していた、母性の権化ごんげ であった彼女は、不意にまた、老母を思う子として、呵責かしゃく されたのである。── 子に返って、子どものように、およと、泣き乱れる彼女であった。
伯父は。あざ笑った。
「よせやい、いい加減に」
そしてまた、あの、言い出した。
「そうだ、泣きついでに、もうひとつ、泣くことを、泣いておくがいい。── おまえは、義朝が、東国へでも落ちのびて、やがて迎えにでも来るのを待っているつもりかしらねえが、義朝は、死んだぜ。正月の三日に」
「・・・・・・」
彼女は、信じない顔を、振りあげた。けれど、唇は、血の色もなく、けいれんした。
「うそじゃねえ。うそか、ほんとか、都へ出てみるがいい。東獄とうごく の門のおうち の木に、七日もさらし物になっていたのを、都の者は、たれだって見ている」
「ああ。・・・・では」
「おい、常盤、どうしたんだ、しっかりしろやい。狂女の仮面めん みてえに、おれをにらみつけたって、おれのせいじゃねえ。── おまえたちを、こんな目にあわせたのは、いくさ だ。そのばかな戦をやったのは、義朝じゃあねえか。もう、忘れるこったぜ。昔の夢は」
何を言おうと、常盤の耳には、聞こえない。
かなしみにまま、知性に、ほんとの狂気が、入れ代りそうであった。自分の涙に、濡れ汚れて、半日もだえぬいたが、その悲嘆のおぼれを、呼びさましては、彼女の母性にムチ打つのは、そのふところに抱かれている乳のみ子であった。鋭敏に、母の悲しみを神経に感じ取る牛若の泣き声だった。
あくる日。
伯父はついに彼女をだま しすかして、牛車の汚い箱の中に、常盤と三人の子を、乗せてしまった。別れを泣き悲しむ子守もり蓬子よもぎこ も、あとに振り捨てて。
「やれやれ、骨を折らせやがった」
京へ向かって、牛を追いながら、この伯父は、六波羅からもらえる賞金を空想しながら、貪欲どんよく なよだれをたらして歩いて行った。
かつて義朝が宮門の左馬頭さまのかみ であった日には、その門に出入りして、牛糞ぎゅうふん 馬糞ばふん の中でもひざまずいて、頭殿こうのとの の姿を拝した男なのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next