すると、ある日、巨椋
の伯父が、ここへボロボロな牛車をひいて、訪ねて来た。その晩は泊って、地蔵堂の僧と、おそくまで、話し込んでいたが、翌る日、常盤に向かって、こう説いた。 「こんな所に、いつまで隠れおわせるものじゃあない。都へ帰っての思案とするこったな。・・・・もし、おまえが帰らずにいようものなら、おまえが、六条へ残して来た母親は、しばり首か、はりつけにされてしまうぜ」 「え。・・・・ど、どうしてです」 「どうしてって、あたり前じゃねえか。義朝の子を抱えたまま、おまえが、姿を隠しているから、その身代わりに、六波羅の問罪所へ、あげられてしまったんだ」 「えっ。母君が・・・・捕まっているのですか」 「そうさ、世間では、隠れもないことだ。おまえのことも、言ってるぜ。──
男の義朝と生な した子たちの可愛さに、自分の生みの母親は、忘れっ放しにしてるんだろうって」 「・・・・・」 牛飼い親方を渡世としているだけに、この伯父の眼は動物的である。涙というものは、なんなのか、知らないような、大きな出眼でめ
であった。 その眼の前で、常盤は、泣き伏していた、母性の権化ごんげ
であった彼女は、不意にまた、老母を思う子として、呵責かしゃく
されたのである。── 子に返って、子どものように、およと、泣き乱れる彼女であった。 伯父は。あざ笑った。 「よせやい、いい加減に」 そしてまた、あの、言い出した。 「そうだ、泣きついでに、もうひとつ、泣くことを、泣いておくがいい。──
おまえは、義朝が、東国へでも落ちのびて、やがて迎えにでも来るのを待っているつもりかしらねえが、義朝は、死んだぜ。正月の三日に」 「・・・・・・」 彼女は、信じない顔を、振りあげた。けれど、唇は、血の色もなく、けいれんした。 「うそじゃねえ。うそか、ほんとか、都へ出てみるがいい。東獄とうごく
の門の樗おうち の木に、七日もさらし物になっていたのを、都の者は、たれだって見ている」 「ああ。・・・・では」 「おい、常盤、どうしたんだ、しっかりしろやい。狂女の仮面めん
みてえに、おれをにらみつけたって、おれのせいじゃねえ。── おまえたちを、こんな目にあわせたのは、戦いくさ
だ。そのばかな戦をやったのは、義朝じゃあねえか。もう、忘れるこったぜ。昔の夢は」 何を言おうと、常盤の耳には、聞こえない。 かなしみにまま、知性に、ほんとの狂気が、入れ代りそうであった。自分の涙に、濡れ汚れて、半日もだえぬいたが、その悲嘆のおぼれを、呼びさましては、彼女の母性にムチ打つのは、そのふところに抱かれている乳のみ子であった。鋭敏に、母の悲しみを神経に感じ取る牛若の泣き声だった。 あくる日。 伯父はついに彼女を騙だま
しすかして、牛車の汚い箱の中に、常盤と三人の子を、乗せてしまった。別れを泣き悲しむ子守もり
の蓬子よもぎこ も、あとに振り捨てて。 「やれやれ、骨を折らせやがった」 京へ向かって、牛を追いながら、この伯父は、六波羅からもらえる賞金を空想しながら、貪欲どんよく
なよだれをたらして歩いて行った。 かつて義朝が宮門の左馬頭さまのかみ
であった日には、その門に出入りして、牛糞ぎゅうふん
馬糞ばふん の中でもひざまずいて、頭殿こうのとの
の姿を拝した男なのである。 |