〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/25 (木) 常 盤 ときわ ぞう (三)

一たんは、おろおろした。けれど、いよいよこの御堂を立つ時は、常盤は、光厳よりも、恟々おどおど していなかった。落ち着きすましたひとみで、子たちを見守りながら、音鳥羽の船戸ノ津から出る一番船の中に、常盤と、幼い者たちの、姿が見られた。
光厳は、別れて、そこにはもういなかった。
「まあ、可愛いお子たち。・・・・こんなにお早く、どこまで、行くんですか」
江口の里まで帰るという二人連れの遊女が、今若と、乙若に、菓子をくれた。
「有り難うございます。巨椋おぐら御牧みまき に、知るべがおりますので」
「では、じきにお降りですね。── お遊びにですか」
「いいえ」
「ではあなた方も、年暮くれ のうちの合戦で、焼け出された組でしょう。わたしたちも、親の家が、焼かれたので、江口から見舞いに出て来た帰りです。ほんとに、何も知らない者こそ、ひどい目にあいましたわね。・・・・和子たちも、さぞ、こわ かったでしょう」
「ううん・・・・」 と、今若は、知らない女の人になでられた頭を、うるさそうに、横に振って、
「あら、おかあ様、乙若は、いただいたお菓子を、すぐ食べますよ。食べてもいいの。ええ、おかあ様」
常盤は、袿衣うちぎ のふところに、牛若を包つつんで、抱えながら、それを、むりもないと、ながめていた。
「え。・・・・いいんですか、おかあ様、今若も、食べたいの」
「お礼をいうての。そして、いただいたがよい」
遊女たちは、子ども好きだった。というよりも、夜ごとよごと、抜け目がなさすぎて、気もゆるせない大人おとな どもばかり相手にしているせいかも知れない
竹籠たけかご からまた、もち を出してくれたり、まだ春の川風は寒いからといって、自分が背に入れていた真綿を脱いで、牛若の肩に巻いてくれたりした。
常盤は、御牧みまき の岸で降りた。
「和子さんたち、あばと」
遊女たちは、舟の中で、手を振った。
巨椋おぐら には、彼女の伯父伯母がいた。そこの牧で、牛を飼い、牛飼い親方をしているのだった。
「まあ、常盤だね」
伯母は、とんでもない顔をして、彼女を、柴垣しばがき から家の中へも入れなかった。
「薄情のようだけれど、おまえたちは、お尋ね者だよ。知ってるだろう。── 六波羅へ届ければ、おかねをくださるんだよ、ご褒美ほうび にね。・・・・さ、うちの良人ひと が、まだ寝ているうちに、ほかへお行き、あの良人ひと に知れたら、ただすませはしない、伯母の慈悲を、 にしないで」
と、ていよく、かど を追われてしまった。
大和やまと 宇多郷うだごう龍門りゅうもん に、もう一人、身寄りがある。そこへ頼ってみるしかない。
途々みちみち 、もらい乳をしたり、寺院の軒下に寝たりして、幾日幾夜を、乞食こじき のように歩いた。
怪しまれたことも多い。
けれど、旅の母子に、親切な者も少なくない。もしや、とひそかに疑う者も、
「・・・・罪な」
と、ささやき合って、密訴に走る者もいなかった。
龍門の身寄りというのは、地蔵堂の僧であった。二月の初めまで、彼女はそこに隠れていた。牛若の糞便べん も、黄色くなった。しかし、世間へは、一歩も出たことはない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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