一たんは、おろおろした。けれど、いよいよこの御堂を立つ時は、常盤は、光厳よりも、恟々
していなかった。落ち着きすましたひとみで、子たちを見守りながら、音鳥羽の船戸ノ津から出る一番船の中に、常盤と、幼い者たちの、姿が見られた。 光厳は、別れて、そこにはもういなかった。 「まあ、可愛いお子たち。・・・・こんなにお早く、どこまで、行くんですか」 江口の里まで帰るという二人連れの遊女が、今若と、乙若に、菓子をくれた。 「有り難うございます。巨椋おぐら
の御牧みまき に、知るべがおりますので」 「では、じきにお降りですね。──
お遊びにですか」 「いいえ」 「ではあなた方も、年暮くれ
のうちの合戦で、焼け出された組でしょう。わたしたちも、親の家が、焼かれたので、江口から見舞いに出て来た帰りです。ほんとに、何も知らない者こそ、ひどい目にあいましたわね。・・・・和子たちも、さぞ、恐こわ
かったでしょう」 「ううん・・・・」 と、今若は、知らない女の人になでられた頭を、うるさそうに、横に振って、 「あら、おかあ様、乙若は、いただいたお菓子を、すぐ食べますよ。食べてもいいの。ええ、おかあ様」 常盤は、袿衣うちぎ
のふところに、牛若を包つつんで、抱えながら、それを、むりもないと、ながめていた。 「え。・・・・いいんですか、おかあ様、今若も、食べたいの」 「お礼をいうての。そして、いただいたがよい」 遊女たちは、子ども好きだった。というよりも、夜ごとよごと、抜け目がなさすぎて、気もゆるせない大人おとな
どもばかり相手にしているせいかも知れない 竹籠たけかご
からまた、餅もち を出してくれたり、まだ春の川風は寒いからといって、自分が背に入れていた真綿を脱いで、牛若の肩に巻いてくれたりした。 常盤は、御牧みまき
の岸で降りた。 「和子さんたち、あばと」 遊女たちは、舟の中で、手を振った。 巨椋おぐら
には、彼女の伯父伯母がいた。そこの牧で、牛を飼い、牛飼い親方をしているのだった。 「まあ、常盤だね」 伯母は、とんでもない顔をして、彼女を、柴垣しばがき
から家の中へも入れなかった。 「薄情のようだけれど、おまえたちは、お尋ね者だよ。知ってるだろう。── 六波羅へ届ければ、おかねをくださるんだよ、ご褒美ほうび
にね。・・・・さ、うちの良人ひと
が、まだ寝ているうちに、ほかへお行き、あの良人ひと
に知れたら、ただすませはしない、伯母の慈悲を、無む
にしないで」 と、ていよく、門かど
を追われてしまった。 大和やまと
宇多郷うだごう の龍門りゅうもん
に、もう一人、身寄りがある。そこへ頼ってみるしかない。 途々みちみち
、もらい乳をしたり、寺院の軒下に寝たりして、幾日幾夜を、乞食こじき
のように歩いた。 怪しまれたことも多い。 けれど、旅の母子に、親切な者も少なくない。もしや、とひそかに疑う者も、 「・・・・罪な」 と、ささやき合って、密訴に走る者もいなかった。 龍門の身寄りというのは、地蔵堂の僧であった。二月の初めまで、彼女はそこに隠れていた。牛若の糞便べん
も、黄色くなった。しかし、世間へは、一歩も出たことはない。 |