〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/25 (木) 常 盤 ときわ ぞう (二)

二ツの牛若は、男の子のつねでもあるが、生まれた時から虫気むしけ がつよく、若い母は、この子が泣き出すと、日ごろでも、おびや かされるようになる。
追捕の眼が光るちまたをさまよい歩くうち、乳も出なくなり、むりな食べ物を、みどり児の胃に与えたせいか、牛若は、きのうあたりから、青い糞便べん をして、泣きかたも、ただではなかった。
「この身に代えても、和子のお生命いのち を、守らせたまえ」
彼女は子安観音の宝前へ、心のうちから、何百遍、こう祈り叫んだことか知れない。
ここ十日ほどの間、火を見ても、刃を見ても、せつなに、黒髪のさか立つ恐怖と同時に、心を、しかとかた めるのは、
(── 和子たちの生命に代れ!)
と、自分へ命じる本能の声 ── 母性の叱咤しった ── それであった。
九条院の園生そのう にいた時から彼女はすでに母であった。義朝と会っている日も母であった。戦火のちまたへ出ても母であった ── そしてこの子安観音の大床に、こごひそ んでいる今も、母である。
けれど、危害、飢え、路頭の迷い、追捕の危険などに、追いつめられ、おいつめられて、日をふるほどに、その母性は、違って来る。
だんだん自分の意欲には、おろ かなほど、うす くなり、そして子供たちの生命が、まったく自分の生そのものになっていた。
権化ごんげ という言葉が、そのまま彼女に、あてはまる。母性を権化しきった母。── この春で二十三になったばかりの若い母にそれが見える。
家を出たとき着ていたままの小袿こうちぎもすそ もつづれ、腰衣こしぎひも の解けたのをゆか にひいて、泣き止まぬ牛若を抱きあやしながら、燈籠とうろうしょく ほのぐらい内陣ないじん のあたりを、身を揺りかご にして行き来している彼女の姿は、そのまま、慈母じぼ 観世音かんぜおん 菩薩ぼさつ が、玉虫たまむし 厨子ずし から金泥きんでい宝壇ほうだん を降りて、歩いているようでさえあった。
・・・・ふと、遠くで、重い厨子開ずしびら きの を、たれやらきしみ ける音がした。
常盤のひとみは、すぐ、びくとして、ふりかえる。
「・・・・お、蓬子よもぎこ か」
「はい、蓬子です。やっと、光厳さまにお願いして、くず の粉を いてまいりました」
「そう。・・・・ああよかったこと。すぐください。和子が、飢えきって、この通り、もう声も出ず、泣きわなないているのです」
「オオ、ほんに、むしゃぶりつくように、おあがりなさいますこと」
「・・・・生きようとするのでしょうね。無心ではありませんよ。一心です。ごらん、息もつかないで葛の湯を飲みくだしている和子のくちもとを」
自分のふところを、見まもりながら、常盤はまた、涙にくれた。涙は、こんなに出るのに、なぜ、乳は出ないのか。もっともっと自分の血も肉も、みな乳になって、出てくれればと思ったりした。
「常盤どの。・・・・やっと、和子も泣き止みましたね」
光厳がうしろに来ていた。蓬子は、それをいうのを、わすれていた。
「お・・・・光厳さま、この真夜半まよなか まで、お世話をおかけいたしまする」
「世話などは、なんともしません。けれど、困ったことができました」
「・・・・なんぞ、また?」
「お分かりでしょう。寺中が、うるさくなって来ました。もう、ここも安全ではありません」
「ああ、どうしましょう、ここを出て」
光厳の話によると、夜ごとの嬰児あかご の泣き声で、常盤が、観音堂の一堂にいることは、たれ知らない者はない。
あしたは、六波羅のなにがしという武将が、この山一帯を、詮議せんぎ に来るということが聞こえている。当然、寺中の問題になり、光厳は、その責任者と見られているというのである。
「乙若様を、わたくしが背負しよ いましょう。蓬子さんは、今若様の手をおひきなさい。そして、常盤どのは、牛若様を抱かれて、夜の明けぬまに・・・・」
光権は、うながした。夜が明けては、おそいという。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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