禅尼の慈悲心は、さだめし満足を覚えたであろう。諸天
の仏菩薩ぶつぼさつ は、彼女の善根を、散華礼賛さんげらいさん
してよいわけだ。 ところが、歴史は、皮肉である。 檻おり
の中から、陽ひ の目め
を見て、やがて発芽した小さな生命が、伊豆の頼朝と成長して、関八州かんはっしゅう
のの源氏を糾合きゅうごう し、平家一門を脅威したのは、それからわずか二十年目だった。 (禅尼は、過あやま
っていた) (清盛も弱かった) (あの時に、頼朝をだに、生かしておかなかったら) 史家はそういうし、世間も常識として、頼朝の生命一つが、やがて平家没落の過因であったようにいう。 しかし、ほんとは、平家凋落ちょうらく
の素因は、助けられた頼朝にあったのではなく、助けた池ノ禅尼の方にあったものだといってよい。 なぜなら、彼女の善行は、たしかに、良人おっと
を亡な くした後も、貞操を守った尼後家あまごけ
の慈悲心には違いなかったが、その代わりに彼女の行為はそのまま、 「政治を私わたくし
する昨日きのう までの通弊つうへい
」 を、そっくり清盛の家庭に持ち入れてしまった。 “政治を血族間で私わたくし
する” また “政事と家庭の混同” ほど、かつての藤原貴族を、腐敗させたものはない。── その手法を、禅尼はまた、六波羅の新しい苗地びょうち
へ植えてしまったのだ。せっかく、保元、平治の合戦と、二度までの犠牲をもって革あらた
められかけた新社会の様相も ── 六波羅の使命も、意義の少ないものになってしまった。 貴族政治を倒した平家が、ふたたび貴族生活を真似まね
、一門の子弟がみな、滔々とうとう
と、早熟そうじゅく 早落そうらく
の開花を急いで、余りに儚はかな
い、わずか二十年の栄花に終わってしまったのも、じつに、六波羅政治の興るとたんからもう一個の尼後家が、組織の母胎に、約束づけていたものといってよい。 だから、かりに頼朝が、助命されずに、十四歳で、斬られたとしても、平家の短命と、凋落は、必然であったろう。咲いては散り、熟しては落ち、歴史は法則通りな興亡循環を、やはり描いていたであろうと思う。 それと、もう一つ考えられる重大な問題は、清盛の真意にも、初めから充分、
「頼朝ぐらいは助けても ──」 という寛大な気持があったに相違ないことである。 池ノ禅尼から政治上の問題に口出しされたことは、かれを反撥させたに違いない。その弊害が前例になることを極力避けようとしたものだ。そのため家庭の内輪もめとしては。彼の頼朝助命を断然うけつけなかった。
「もってのほかな ──」 と怒ったのである。 ── けれどもし清盛が肚はら
の底から頼朝を死罪にする意志ならば、禅尼の請いを容い
れないでもすむことだった。一族の大多数はみな助命反対なのである。たとえ頼盛や重盛が、尼に助言したにしても、清盛にも慈悲がない限り、頼朝の助命は見られなかったのだ。彼はいわゆる大きな腹の人だったに違いない。その頼朝を、しかも源氏の地盤といってよい
── 源氏の根拠地たる東国の伊豆に流しているのである。 もし、彼の寛大が、本心からのものでなく、他から強いられた不承不承の助命であったなら、決して、頼朝を源氏の根拠地へ流すような処置は取るまい。西国へ配流を命じればよい。──それを源氏の地盤へわざわざ流した。──
平家の為に失策といえば大失策というほかはない。が、清盛も敵の遺した一少年に、心では憐愍れんびん
を抱いていたのである。そして彼らしい大腹中には大した懸念もしていなかったものと思われる。 とまれ、頼朝の助命は、その配流はいる
先は、このように、一応、内定されていた。 ところが、その二月から三月へかけて、ちょうど時も同じゅうして、義朝の遺のこ
した幼い子供たち三人がまた、清盛の前にひかれていた。 義朝と常盤ときわ
の仲に生まれていたあの幼い者たちである。 敗れて、都から落ちる日まで、義朝の胸にあった気がかりは、その常盤と、三人の幼子たちの行く末であったろう。世の騒乱をいちばん酷むご
く烈しく受けた者は、世の騒乱にいちばん弱い女性であった。 時日を、少し以前にもどして、彼女と三人の幼子おさなご
が、戦後のちまたを、どうさ迷い歩いたか ── 以下、章を代えてのことにする。 |