重盛は、以後、躍起
となって、父の清盛へ、 「禅尼様からのお願いを、かなえて上げてください」 と、頼朝の命乞いのちご
いを、ともに嘆願した。 重盛の癖として ── いやそれは彼の天性とまだ若い学問の臭味くさみ
がつい醸かも し出すものであったが
── 時には嘆願の熱度が過ぎて、子が父へ、意見でもするように聞こえたりすることがある。そこで清盛も、ぼつ然と怒気どき
を見せて、 「まだ、青くさい身をもって、賢者けんじゃ
ぶるな、和朗わろ など、仏者ぶっしゃ
遊びは、まだ早い」 と、どなりつけたり、また、 「尼の請う
け売りは止めてくれい。菩提ぼだい
の輪廻りんね のと、そんな文句で、埒らち
のあく世の中かよ。奈良や三井寺の腐敗をみろ。叡山の狼僧ろうそう
どもと、街の浮浪や乞食こじき
と、いずれが上等だと思う。── 人間は生き物だぞ、この世は生き物同士が、食うか食われるかをやっている巣だ。寸土も余さず、勝敗を営みとしている地上だ。・・・・でも、たって仏いじりがしたいなら、そして慈悲だの善根ぜんこん
だのといって、安っぽい涙をこぼしていたいなら ── 伽藍がらん
の中か、池ノ尼御前あまごぜ の住居へ行って、一緒にやれ。おれの前になど持ち出すな。──
清盛は世の政治まつりごと をあずかる身だ: と、毒づいたりするのであった。 子は、知性ないい方をするし、親は、感情を加味しないと、洗いざらい、物が言えない性格である。──
だから、家人けにん や小侍が、父子のあらそいを、遠くで、もれ聞いていると、重盛の静かで理論の通った言葉に反して、清盛は、やたらに、親の威圧と、乱暴な語気で、青筋でも立てているようにしか、想像されない。 事実、清盛には、放埓ほうらつ
をやった若年の頃の “盛り場ことば” の名残だの、塩小路いをこうじ
人種の下司げす な影響などが、どこやらに残っていた。ふだんは出ないが、激すると、子へ対しても、出てしまう。 けれど。 そんな時の清盛は、かならず、眼底に、涙をもって、がなっているのである。──
人の涙を、安っぽい涙と、毒つきながら、彼自身、いつも瞼まぶた
の皮を、ぴくとも、動かせないほど、すぐ熱いものをいっぱいにためてしまう方なのだ。 とにかく、こんなわけで、頼朝処分問題は、その政治性よりも、彼の家庭問題として、よりむずかしくなってしまった。 義母、義弟から、今は実子の重盛までが、助命を唱え出したのである。そして清盛ひとりを、無慈悲無情な人間みたいに
── もちろん故意にではないが ── 自然そう見える者に追いつめていた。 清盛は、気が弱い。 じつに気の弱い一面を、彼は、身近な者や弱い者には持っている。 かつては、山王の神輿振みこしぶ
りに、一矢し を射て、満都の人びとを、震駭しんがい
させた彼。 熊野路くまのじ
からは、都の変へん を聞き、快馬に一鞭べん
して、争乱の死地へ、駆け戻って来たほどな彼。 そして、乱後の内裏だいり
に入って、殿上人てんじょうびと
の簡かん を手に収めたときには、 (きのうくれて、きょう取る。早いものだな) と、大笑したというほど、人もなげな勇胆ゆうたん
と豪放ごうほう を持つ彼が ──
おりには、じつに、彼らしからぬ、弱さを暴露ばくろ
することがある。 頼朝の処分問題は、その好適例といってよい。 さきに、頼盛へは、 「二月十三日に、死罪の処置をとれ」 と内示してある。それなのに、期日が迫っても、官への手続きを取らないし、また清盛自信、何も言い出さないので、ついに、その十三日は、なんとなく、うやむやの裡うち
に、過ぎていた。 そして、やっと確定を見たのは、それからなお一ヶ月の余の後で、正式な沙汰さた
ぶれには、次のように見えた。 一 義朝ノ子、前サキ
ノ兵衛佐ヒヤウエノスケ 頼朝ヨリトモ
事コト 一 伊豆ノ国ヘ配流申シツケラル 一 三月二十日、京師ヲ追立テ、配所ノ地ヘ、下サレ申スベキ也 ついに清盛も、禅尼たちの乞こ
いを、拒こば み得なかったものである。
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