〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/24 (水) たん だい しよう しん (二)

重盛は、以後、躍起やっき となって、父の清盛へ、
「禅尼様からのお願いを、かなえて上げてください」
と、頼朝の命乞いのちご いを、ともに嘆願した。
重盛の癖として ── いやそれは彼の天性とまだ若い学問の臭味くさみ がついかも し出すものであったが ── 時には嘆願の熱度が過ぎて、子が父へ、意見でもするように聞こえたりすることがある。そこで清盛も、ぼつ然と怒気どき を見せて、
「まだ、青くさい身をもって、賢者けんじゃ ぶるな、和朗わろ など、仏者ぶっしゃ 遊びは、まだ早い」
と、どなりつけたり、また、
「尼の け売りは止めてくれい。菩提ぼだい輪廻りんね のと、そんな文句で、らち のあく世の中かよ。奈良や三井寺の腐敗をみろ。叡山の狼僧ろうそう どもと、街の浮浪や乞食こじき と、いずれが上等だと思う。── 人間は生き物だぞ、この世は生き物同士が、食うか食われるかをやっている巣だ。寸土も余さず、勝敗を営みとしている地上だ。・・・・でも、たって仏いじりがしたいなら、そして慈悲だの善根ぜんこん だのといって、安っぽい涙をこぼしていたいなら ── 伽藍がらん の中か、池ノ尼御前あまごぜ の住居へ行って、一緒にやれ。おれの前になど持ち出すな。── 清盛は世の政治まつりごと をあずかる身だ:
と、毒づいたりするのであった。
子は、知性ないい方をするし、親は、感情を加味しないと、洗いざらい、物が言えない性格である。── だから、家人けにん や小侍が、父子のあらそいを、遠くで、もれ聞いていると、重盛の静かで理論の通った言葉に反して、清盛は、やたらに、親の威圧と、乱暴な語気で、青筋でも立てているようにしか、想像されない。
事実、清盛には、放埓ほうらつ をやった若年の頃の “盛り場ことば” の名残だの、塩小路いをこうじ 人種の下司げす な影響などが、どこやらに残っていた。ふだんは出ないが、激すると、子へ対しても、出てしまう。
けれど。
そんな時の清盛は、かならず、眼底に、涙をもって、がなっているのである。── 人の涙を、安っぽい涙と、毒つきながら、彼自身、いつもまぶた の皮を、ぴくとも、動かせないほど、すぐ熱いものをいっぱいにためてしまう方なのだ。
とにかく、こんなわけで、頼朝処分問題は、その政治性よりも、彼の家庭問題として、よりむずかしくなってしまった。
義母、義弟から、今は実子の重盛までが、助命を唱え出したのである。そして清盛ひとりを、無慈悲無情な人間みたいに ── もちろん故意にではないが ── 自然そう見える者に追いつめていた。
清盛は、気が弱い。
じつに気の弱い一面を、彼は、身近な者や弱い者には持っている。
かつては、山王の神輿振みこしぶ りに、一 を射て、満都の人びとを、震駭しんがい させた彼。
熊野路くまのじ からは、都のへん を聞き、快馬に一べん して、争乱の死地へ、駆け戻って来たほどな彼。
そして、乱後の内裏だいり に入って、殿上人てんじょうびとかん を手に収めたときには、
(きのうくれて、きょう取る。早いものだな)
と、大笑したというほど、人もなげな勇胆ゆうたん豪放ごうほう を持つ彼が ── おりには、じつに、彼らしからぬ、弱さを暴露ばくろ することがある。
頼朝の処分問題は、その好適例といってよい。
さきに、頼盛へは、 「二月十三日に、死罪の処置をとれ」 と内示してある。それなのに、期日が迫っても、官への手続きを取らないし、また清盛自信、何も言い出さないので、ついに、その十三日は、なんとなく、うやむやのうち に、過ぎていた。
そして、やっと確定を見たのは、それからなお一ヶ月の余の後で、正式な沙汰さた ぶれには、次のように見えた。
  一 義朝ノ子、サキ兵衛佐ヒヤウエノスケ 頼朝ヨリトモ コト
  一 伊豆ノ国ヘ配流申シツケラル
  一 三月二十日、京師ヲ追立テ、配所ノ地ヘ、下サレ申スベキ也
ついに清盛も、禅尼たちの いを、こば み得なかったものである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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