〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/23 (火)  げん (三)

二月十三日は、あと幾日もない。
その日には、いやおうなく、ここを引き出して、打ち首にしなければならないことを、宗清はまだ、頼朝に聞かせていなかった。
一つの、みずみずした少年の静かな生命を、かれは、毎日見ていた。日を経るほど、惜しみと、ふしぎな愛着を、この可憐かれん な少年につのらせて来るのを、彼自身も、否まれなかった。
「番の者。弥兵衛やひょうえ を、呼んで給も」
武者覗むしゃのぞ きから、頼朝の声がした。用のある時は、ここから、と教えてあるが、めったに、頼朝の方から声をかけたことはない。
「何か、御用ですか」
宗清は、すぐ室を訪ねた。
近ごろは、相互の気心が、一つ家の者みたいに溶け合っていた。
「お、弥兵衛。これくらいなひのき の板ぎれ百枚と、小刀を貸して給もらぬか」
「檜と小刀をですか。・・・・はて、何を遊ばすおつもりで」
「かぞえてみると、やがて、父義朝の四十九日。小さい卒塔婆そとば を日課に削って、御供養のため、どこぞの御寺みてら に寄せたいと思うて」
「・・・・お。もうそうなりますか」
と、宗清は、こういう言葉を聞くごとに、胸を打たれた。彼にも、子はある。彼も親心を知る者だった。凡情にすぎないと思いながら、ついまぶた をやぶってあふれ出す人間の常なる涙を、どうしようもなかった。
「── まい らせたくは思いますが、お獄舎ひとや には、おきて として刃物を、お入れするわけにはいきませぬ。御誦経ごずきょう なと、遊ばされませ」
そう、ことわっておいて、宗清は次の日、百枚の小さな卒塔婆を、頼朝の小机へ、運んでやった。
頼朝は、毎日それへ、仏の名号と、父の名を書いた。他念ない姿である。
宗清から、その話を聞いて、池ノ禅尼はまた一しお、不憫ふびん な思いを増した。なんとか、助けてとらせたい。徳は ばらず、これも平家のためである。また、 き家盛への功徳にもなろう ── などと、彼女jは自分のぜん なる行為とする考えに、いよいよ自尊と自信を深めた。
ついに、彼女はみずから、牛車を、六波羅へ向けた。そして清盛を訪うた。清盛は、義母が奥へ通ったと聞いて、 「来たな」 と思った。すでに心をよろ うていた。
案のじょう、やがて、侍女をよこして、
「持仏堂まで、来て給もれ」
であった。
清盛は、いつもと違う仏頂面ぶっちょうづら をわざと持って、むっそりと、義母の前にすわった。
「大弐どの。・・・・お慈悲じゃ。尼の願いを、きいて給もらぬか」
義朝の子、右兵衛佐ひょうえのすけ 頼朝よりとも の、助命の儀ですか」
清盛は、あえて、物々しく、先手を打っていった。
「そうです、先ごろの夜も」
「いや、頼盛からも、お胸の内は伺いました。・・・・しかし」
「いけませんか」
「だめです、義朝の子の処分などは、ゆゆしき問題で、あなた様などのお口を出すところではありません」
何か、清盛は、胸がすいた。こうにべ もない語気で、この義母の上に出たのは、初めてである。だが、禅尼がふと、涙をふくのを見ると、清盛は急に気崩れを覚えた。そして当惑そうに眼をそらした。
禅尼は、ほっと嘆息をもらした。聞こえよがしのため息は、女性のたれもがよくやる仕ぐさであるが、尼はなお、こうしみじみとつぶやいた。
「ぜひもなや・・・・忠盛殿が世におわすではなし、そのお人もいない今ではmぷ・・・・」
女性のねちねちしたねば りに会うと、清盛はつい舌打ちが出る。冷然と、彼は反撥した。
「また、おひがみですかな。いつもの」
故殿ことの が、おいで遊ばしたら、よも、我が子から、そのようには、いわれますまい。行く末も、思いやられて、尼は悲しまずにはいられません」
「これは、迷惑する。・・・・たれが、あなた様を、義母ともあがめず、悲しい思いをさせましたか。ただ、頼朝助命のことなどは、黙っておいでなさいと言っただけです」
「どうしても、おきき入れはなりませんか」
「思うても御覧あれい。伏見中納言とか、越後中将とかの手輩てあい なら、何十人助けおこうと、大事はない。けれど、総じて、弓取りの子というものは、根性のこわ いものですぞ」
「そういう、あなたも、弓取りの子ではないか」
「だからです。清盛には、分かりすぎている。ひょう の子は、豹の子ですぞ。いまは抱けもしょうが、後日、必ず爪牙そうが をもつ」
「なんの、ひたすらに、亡き人びとを弔うて、僧になりたいと念じている、あの、いたいけない童を」
母御前ははごぜ 。── もうやめましょう。女どものおく へなと渡らせられい。あなたは、孫の盛姫を抱いていただくのが何よりだ」
「お子は、可愛かろう」
「可愛い。仰っしゃる通り、子は可愛い。わけて清盛は、親ばかです」
「頼朝も、人の子よ。・・・・どうぞ後世ごせ を思うて べ。後世のおそろしさを」
「また、仏法の因果ばなしですか」
「あ、あ。もういいますまい」
禅尼はくるりと、うしろを向いた。そして忠盛の位牌いはい を仰いで、次の言葉は、なにやら口のうちで言っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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