五条大橋に、この春ほど、牛の糞
が多く見えたことはない。開橋以来の交通の頻繁ひんぱん
さである。橋南橋北、織るがごとき人や馬車であった。 牛糞、東風ニ薫クン
ズ、市ヲナスノ車 橋南、柳芽りうが
ニ繋ツナ グ、名利ノ漁舟 たれか、もうこんな落書を、五条の欄干らんかん
に、書きちらした者などある。 けれど、落首らくしゅ
はうそではない。 清盛自身が、まったく、このころの訪問客の多いには、くたびれ気味だった。彼の官職はまだ、太宰大弐だざいのだいに
にすぎないので、貴賓の牛車とあれば、みな礼を執らなければならない。 余りに、みえすいた諂へつら
い客、破廉恥はれんち な寝返り者、虫のいい早速な猟官客りょうかんきゃく
などには、ずいぶん、野人になって追い返すが、ここ六波羅が、これからの花園と見られ出しては、虻あぶ
や蜂はち が、陽気に順したが
って、寄って来るのが自然であるように、防ぎようもない門前の繁昌だった。 「いや、やりきれぬ」 清盛は、夕殿ゆうどの
の灯とともに、家族たちの中へ返って、衣冠も何も、かなぐり捨てて、一個の彼に返っていた。 「時子、おまえも、いつのまにか、ずいぶん、子を生んだものだな。あまたの子らに囲まれ、古女房を相手に酒を酌く
むほど、清盛も、いつしか年を経ていたろうか。この梅月の夜を、なんと、味気ないながめよ」 彼は、めずらしく、大酔していた。 意識的に酔って、前後不覚に、今夜は寝ようという、つもりらしい。 「時子、たまには何か弾ひ
いて聞かさぬか」 「ホホホ。何をおいいつけですの」 「雅みやび
のないやつ。管絃をだ。琴でも、琵琶びわ
でも」 「公卿のまねごとは、おきたいだといつも仰せ遊ばすくせに」 「それも時にとってのことよ。楽器は、耳を楽しませるもの。耳楽しめば、心も清まる。人間にとって、いい遊びだ。野風のかぜ
を持って来い。おれが、弾いて聞かせる。古女房や子どもらに」 いまは信西入道の遺物かたみ
となった琵琶 “野風” を抱いて、清盛がまずい曲をかき鳴らしていた時である。 「頼盛様が、おり入ってとか仰せられ、御興のすむのを、先刻から、お待ちしておられますが」 と、奥侍が、はばかりながら、伝えに来た。 「頼盛が」 が内輪の義弟おとと
である。客とは違う。けれど清盛は、いい顔つきではなかった。 「おり入ってなどと、なんの用だ。── ここへ来てはどうかといえ」 取次ぎは、去って、またすぐ戻って来た。 「ぜひ、お人を避けて、おお話し申したい儀と、仰せられます」 「頼盛のわるい癖だ。おれは、こそこそ話は、余り好きでない。ことに、内輪の密語はな」 「何か、こよいの御用は、池ノ尼公さまに代わっての、大事な儀とかで」 「なに、池ノ尼殿に、代わって見えたと」 清盛は、琵琶を横へ、投げやるように置いて、 「わかった。いま行く」 と不機嫌をみなぎらして、大股おおまた
に、便殿べんでん の厠かわや
へと、立ってしまった。 |