〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/23 (火)  げん (一)

五条大橋に、この春ほど、牛のふん が多く見えたことはない。開橋以来の交通の頻繁ひんぱん さである。橋南橋北、織るがごとき人や馬車であった。
  牛糞、東風ニクン ズ、市ヲナスノ車
  橋南、柳芽りうがツナ グ、名利ノ漁舟
たれか、もうこんな落書を、五条の欄干らんかん に、書きちらした者などある。
けれど、落首らくしゅ はうそではない。
清盛自身が、まったく、このころの訪問客の多いには、くたびれ気味だった。彼の官職はまだ、太宰大弐だざいのだいに にすぎないので、貴賓の牛車とあれば、みな礼を執らなければならない。
余りに、みえすいたへつら い客、破廉恥はれんち な寝返り者、虫のいい早速な猟官客りょうかんきゃく などには、ずいぶん、野人になって追い返すが、ここ六波羅が、これからの花園と見られ出しては、あぶはち が、陽気にしたが って、寄って来るのが自然であるように、防ぎようもない門前の繁昌だった。
「いや、やりきれぬ」
清盛は、夕殿ゆうどの の灯とともに、家族たちの中へ返って、衣冠も何も、かなぐり捨てて、一個の彼に返っていた。
「時子、おまえも、いつのまにか、ずいぶん、子を生んだものだな。あまたの子らに囲まれ、古女房を相手に酒を むほど、清盛も、いつしか年を経ていたろうか。この梅月の夜を、なんと、味気ないながめよ」
彼は、めずらしく、大酔していた。
意識的に酔って、前後不覚に、今夜は寝ようという、つもりらしい。
「時子、たまには何か いて聞かさぬか」
「ホホホ。何をおいいつけですの」
みやび のないやつ。管絃をだ。琴でも、琵琶びわ でも」
「公卿のまねごとは、おきたいだといつも仰せ遊ばすくせに」
「それも時にとってのことよ。楽器は、耳を楽しませるもの。耳楽しめば、心も清まる。人間にとって、いい遊びだ。野風のかぜ を持って来い。おれが、弾いて聞かせる。古女房や子どもらに」
いまは信西入道の遺物かたみ となった琵琶 “野風” を抱いて、清盛がまずい曲をかき鳴らしていた時である。
「頼盛様が、おり入ってとか仰せられ、御興のすむのを、先刻から、お待ちしておられますが」
と、奥侍が、はばかりながら、伝えに来た。
「頼盛が」
が内輪の義弟おとと である。客とは違う。けれど清盛は、いい顔つきではなかった。
「おり入ってなどと、なんの用だ。── ここへ来てはどうかといえ」
取次ぎは、去って、またすぐ戻って来た。
「ぜひ、お人を避けて、おお話し申したい儀と、仰せられます」
「頼盛のわるい癖だ。おれは、こそこそ話は、余り好きでない。ことに、内輪の密語はな」
「何か、こよいの御用は、池ノ尼公さまに代わっての、大事な儀とかで」
「なに、池ノ尼殿に、代わって見えたと」
清盛は、琵琶を横へ、投げやるように置いて、
「わかった。いま行く」
と不機嫌をみなぎらして、大股おおまた に、便殿べんでんかわや へと、立ってしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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