〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/23 (火) こう ばいしん ま で あか い (四)

武者住居なので、広くはない。すぐ、それらしい一棟ひとむね が見られた。渡り縁で たれている所から築土ついじ へかけて、青竹で高い鹿垣ししがき いまわしてある。そして室は、妻戸も閉じ、しとみ も下ろし、ほんの明りとりに、窓だけが開いていた。
ときどき、番の者が顔を寄せる 「武者むしゃ のぞ き」 の外に、禅尼を、そっと立たせておいて、宗清だけが、内へ入った。
いつ覗いても、そして今も、白檀びゃくだん の彫像のように行儀よく、頼朝は、円座えんざ を敷き、小机の前に、すわっている。
「あ・・・・ら・・・・」
と、つぶらな彼の眼が、宗清をふり向いた。── いや、紅梅を見つめた、そのにお いに。
宗清とは、朝夕に会っているが、紅梅は、こんなにも咲いたのを、初めて、知ったらしい。
「きれいですね」
「きれいでしょう。ことしは、年暮くれ にも正月にも、雪が多かったので、遅咲きでした」
「雪は、思い出したくありません」
「げにも、心ないことを、ついいいました。壷へでも、さしましょうか」
「あとで、、水をいただいて、自分でさします。・・・・ありがとう」
頼朝は、頭を下げた。梅は、彼の読書していた小机のそばに置かれた。
「折り梅の、折れ口を、彼はそのまま見つめていた。
紅梅の枝は、花ばかりでなく、樹心じゅしん の肉まであか かった。
宗清も、彼が見ている物へ眼をそそいだ。そしてこの少年に対する自分の同情が、主家のためには、将来、危険なものに思われて来た。
だが、知りながらも、彼が同情を抱かずにいられなかった理由は、この少年に充分その危険な素質が見えるからでもあった。さむらいの素質が、さむらいの彼には、尊くて、いたましくて、散らすには、余りに無残と、惜しまれてならないのである。
「きょうは、何をしておいででした。和歌でも、お みですか」
「いいえ、読書していました」
御本ごほん は」
「いつか、お借りした白楽天はくらくてん の詩書、それと、司馬遷しばせん のの史記しき
「どちらが、面白うございますか」
「詩文はつまりません」
「ではやはり、異朝の治乱興亡や、その中の人物を描いてある史記や春秋しゅんじゅう などの方がお好きですか」
「・・・・・」
頼朝は、すぐ答えなかった。
そして、しばらくしてから、
「そんなにも好きではありません。ただ、おもしろいだけ」
「それでは、心から、お読みになりたい書物は」
眸でただ すような宗清の顔つきを、頼朝の眸が、静かに、見すえた。無邪気というものかも知れないのだ。しかし宗清には、この少年に、大人おとな の言葉の表裏を読む能力があるように思われて、はっと、眼をそらした。
そらした眼の方に、 「武者覗き」 がある。禅尼」も外で耳をしましていよう。頼朝がどう答えるかに、宗清はなぜか人知れぬ胸騒むなさわぎ を抱いた。
山繭やままゆ白小袖しろこそで に、うす紫の、あけぼの染めの公達袴きんだちばかま をはき、頼朝は、円座の上に、あぐらをくんだまま、ぽかんと、考えるでもないような顔をしていたが、突然、
「── お経文です。仏さまのことを書いてあるほん が、いちばん好きです」
と答えた。
そしてその、あどけない笑顔のまま。
「仮名書きの経典か、でなければ、釈尊しゃくそん の伝記があったら、こんど見せてください。もしあったら」
「あるにはありますが・・・・。どうして、あんな仏くさいものを」
「でも、なんだか、好きです。── きっと死んだ母君に連れられては、始終、嵯峨さが の清涼寺やら諸所の御寺におまい りしたせいかもしれません。中河の上人のおはなしも聞いたし、いつか、黒谷くろだに草庵そうあん で、法然ほうねん というお坊さまの話も聞きました」
「それで・・・・」
「え、それで・・・自分も大きくなったら、武者よりは、お坊さまになりたいと、思っていました。・・・・けれど、もう」
頼朝は、うつ向いた。武門の約束は、少年たりとも知っている。死は、観念しているらしかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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