〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/21 (日) てん (六)

「はての。・・・・どうも気になる。もしや今のは」
急いで宗清は、また馬を止めて、丹波藤三や供の武者に、こう、いいつけた。
「いま、彼方かなた へ行った少年を、連れて来い。もし、逃げるようだったら、疑う余地はないゆえ、どのようにしてもから れ」
彼の家来たちは、彼一人をおいて、みな駆け出した。
宗清も、あとから、戻って行った。
逃げまわりもしたろうし、暴れもしたにちがいない。頼朝は、楊柳かわやなぎ ののぞいている流れのふちに、仰向けに、ひっくりかえ されていた。
追いつめたおとなたちは、かえって、体じゅうで息をあえぎ、汗と充血に、青すじを立てて顔を並べて、
「さあ、立て」
と、頼朝のまわりを、取り囲んでいた。
もう逃げられない。頼朝はそう観念してしまったものとみえ、仰向けに倒れたまま、太陽へおもてさら し、まぶしげな眼をしながらも、なお、動こうとしないのであった。
「どうしたのだ。何をしているのか」
宗清が、馬の背からのぞきこむと、丹波藤三が憎々にくにく しそうに言った。
「いや、身なりは小そうございますが、どうして、太胆ふとぎもわっぱ でおざる。・・・・ごらんなされい。あのようにしたまま、我らに向かって、召使にでも命じるように、起こせ、起こせと、 かしております」
宗清は、むしろほほ笑ましげに、うなずいた。
「まあよいわ。起こしてやれ、起こしてやれ」
そこで、左右から、武者が寄って、頼朝の両手を取って引き起こした。頼朝は、草ぼこりをつけたまま、宗清の正面に、直立した。美しいばかりに紅潮した少年の横顔に、すこし髪の毛がほつれ、泥ですりむいた傷が赤くなっている。
わっぱ よ。痛かったか」
「・・・・」
「どこへ行く。都から東国へ行くのか」
「・・・・」
父は何者だ。おこと の父は」
「・・・・」
何を いても、答えなかったが、父はといわれると、ぽとんと、涙をこぼした。そしてその涙のあとも乾くまで、なお黙りこくっていた。
宗清は、声に威嚇いかく を込めて、
「答えろっ。答えぬと、痛い目にあわすぞ」
と、まゆ をいからして見せた。
すると頼朝は、かえって、その小さい両の肩を正して、おとなの顔へ水をかけるように言った。
「おまえはたれだ。おまえこそ、馬を降りてものをいえ。わしは平家の下侍げざむらい などに、馬上から何か かれるような者の子ではない」
「こんどは、宗清が黙ってしまった。そういう頼朝のひとみ を、また全姿を、見とれるように見入っていた。── が、やがて素直に馬を降りた。そして頼朝のそばへ寄って、自分は平頼盛の家来宗清であると告げて、
「さ、次はあなたの番ですよ」
と、やさしく言った。
宗清にはもう分かっている。しかしかさねて、ていねいに質問したのである。
「お名前を仰っしゃい。・・・・あなたはたれのお子ですか」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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