南へ、南へ、旅の日数
を歩くにつれ街道に沿う耕地には、麦の青さが増している。空には、雲雀ひばり
の高音たかね 。 美濃から尾張境への並木道だった。 頼朝は、身軽い姿で、歩いていた。肌着はだぎ
も狩衣かりぎぬ も、はばきも、わらじも、太刀も火打袋ひうちぶくろ
も、みな延寿が、母のように、身支度してくれたものである。 二月きさらぎ
近い紺こん の大気の果てに、昼の月があった。 「いま、すれちがった童子、なかなかいい子がらではないか、鄙ひな
にはまれな」 供の徒歩かち
武者十人ほどの弓や長柄ながえ
越ごし に、弥兵衛やひょうえの
宗清むねきよ は、馬上からほほ笑ましげに振り向いた。──
すれちがって行った頼朝の姿を振り返ってである。 郎党の一人丹波藤三国弘も、一緒に見ていた。 「まことに、気品のある小殿ことの
。尾張あたりの、名のある人のお子かもしれません」 「そうだな、けれど、この騒がしい世に、供人ともびと
もつけず、ひとり旅させておくのは、親心にせよ、ちときびしいの。── まだ、加冠かかん
(元服) もすんだか、すまないかの少年を」 そのまま、宗清は、何げなく、先へ歩いた。 清盛の異母兄弟、尾張守平たいらの
頼盛よりもり の家人けにん
である弥兵衛宗清の六感に、その時、ふと、何かが呼び起こされたものとみえる。 宗清は、新たに尾張守となった主人頼盛の所領を検分のため、目代もくだい
として、同地へ赴いていたものだった。そして、はからずも、領下で起こった重大な一事件を直接扱った者でもある。 それと、関連して、 「・・・・はてな?」 と、彼は、もいちど道を振り向いたのであった。 この正月早々。 左馬頭義朝は、尾張知多郡の内海の里に、長田庄司おさだのしょうじ
忠致ただむね を頼って行き、忠致の変心とは知らず、そのもてなしに心を許し、同家の湯殿の内で、だまし討ちにされ、ついに、首級をかかれてしまった。 義朝の股肱ここう
、鎌田兵衛政家も、主とともに、斬き
り死じ にした。 義朝、政家の首級を、都へ送ったり、また長田忠致の行為を、功として、六波羅へ報告するなどの事務も手がけた
── 宗清である。 そしていまは、ひとまず、公務も終わったので、都へ帰る途中であった。 |