〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/21 (日) てん (四)

男とは、そこで別れ、彼はただ一人で、青墓の長者ちょうじゃ 大炊おおい の家の門を訪ねた。
ところが、どうしたことか、広い長者の家は、森閑しんかん としていて、頼朝が通された一室も、心なしか、仏くさい香煙の気が漂っていた。
「まあ、頼朝様ですか」
そこへ姿を見せるなり、こう言って、泣きまろ んだのは、大炊の娘 ── 義朝の愛人、延寿えんじゅ であった。
延寿は泣くのである。その泣き方もただ事は思われない。けれど頼朝は、涙も出なかった。このひと はただの源氏の敗軍を悲しむのであろうと思っていた。
延寿はやがて、涙の面をぬぐって、ようやく次のように話した。
「御曹司さま。・・・・お父君はもうここにはいらっしゃいません。ただ一夜、お姿を寄せられただけで、ここはもう危ういと仰せられ、尾張の長田おさだ 忠致ただむね をたよって落ちのび給い、正月三日というに、その忠致に計られて、あえない御最期ごさいご をとげられましたぞや」
「・・・・えっ。父君が」
御首みしるし は、尾張からすぐ都へ送られ、東獄とうごく の門前のおうち の木に けられたとか・・・・」
「ほ、ほんとですか」
「そればかりではありません。お兄上の朝長様も、矢傷やきずおも って、お くなり遊ばしました。また、御嫡男の義平よしひら 様は、ここでお父君とたもと を分かち、木曾路へ落ちて行かれたまま、なんおお便りもございません」
「では。・・・・父の義朝も、兄朝長も、死んだのですか。もうこの世ではお目にかかれませんか」
「おいたわしい和子わこ 。・・・・あなた様のお身さえ、ここにいては危のうございます。平家の眼が見ていますから」
「・・・・ああ、父上」
支えを失った心の雪崩なだれ に堪えながら、頼朝は天井を向いたまま、顔じゅうからあふれるものに、まだ十四年の春を迎えたばかりの少年の日を洗い流していた。
「ち、ち・・・・父上・・・・」
くちびる を、肩を、手を、そのふるえが可憐かれん な全身を揺れ走ったと思うと、彼は突然、赤児のように、わっと泣き伏した。
あとはもう、むちゃくちゃに、わんわん、泣いてばかりいて、延寿にも手がつけられない狂おしさである。
長者の大炊おおい が出て来て、やっと、なだめすかした。やや落ち着くと、頼朝は、
「もう泣きません。・・・・泣きたくありません」 と、自分から言い出した、そして、大炊に向かってたずねた。
「わたくしは、どこへ行ったらよいでしょう」
「東国へおくだ りあそばせ」 大炊は、指を折って、源氏のたれかれのいる地名と人の名をかぞえた。
「都の辺りには、常盤ときわ どのとやらいうおひと もいて、あなた様とはお腹違いの御兄弟もあるそうですが、いずれもまだ、母御のお手も離れぬ和子たちです。東国にくだ れば、なお、源氏に心を寄せる坂東武者も少なくはございません」
頼朝は、うなずいた。もう泣かなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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