〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/21 (日) てん (三)

竹槍が身をかすめた。夢中で払う。また、竹槍を持った男が、前へまわって来る。何か える。
頼朝はこわ くなった。
それと同時に、父が思い出され、兄や郎党たちが、そばに見えない心細さに襲われた。
「父上っ、兄者人あんじゃひと っ・・・・」
立ちふさがる男たちの影を馬は とばすように び越えていた。頼朝は手の太刀に雪を切らせながら、なおも馬を飛ばしつづけた。
── その夜、彼は、どこえおどう走ったか、自分でも分からない。あらぬ方角へそれていたことだけは確かである。
ついに、馬も乗りつぶして捨て兜も重さに耐えないので、どこかの山林に捨て、そして山や野を、さまよい歩いたにはちがいない。
数日の後。── 山の朝である。
彼は、北江州の里から遠い一農家の納屋廂なやびさし の下に、疲れ果てたもののように、眠っていた。
そこらには、たきぎ やら炭俵やら積んであった。わずかに、雪が降り余している物の蔭に、身を横たえて、昏々こんこん と、寝顔を凍らせていたのである。
まもなく、漬物つけもの を出しに来た山里の女房が、びっくりした声をあげて、小屋の中の良人おっと を呼びたてた。
平家の沙汰人さたにん布令ふれ も、この山奥にまでは及んでいなかったものか、あるいは、夫婦とも慈悲者じひしゃ であったものか、
美濃路みのじ へ行くなら、あの山あいをめぐって、南に見える峠を越え召され」
と、親切に、道を教えてくれた。そして芋粥いもがゆ に体をぬくめてもらったうえ、頼朝は小屋を出た行った。
なぜか、頼朝は、かなしくなった。
生まれた初めて、人に食物を恵まれたということよりも、人の心のあたたかさにである。
旅の尼に、道で出会って、その尼からも、やさしく注意された。
和子わこ よ、不破の関には、あまた平家武者が固めていますぞい。道を間違え召さるなよ」
山の南側へ出てからは、雪もよほど少なくなった。細谷川にそってずいぶん歩いた。幾夜も、猪小屋や山神堂やまがみどう でひとり寝た。
もう年はかわって、正月になっているはずである。
「美濃の青墓あおはか宿しゅく へ行けば」
そこには父や兄が待っていよう。
青墓の長者大炊おおい くという人のむすめと父義朝との仲に、自分とは、腹違いの妹が一人いるという。
頼朝には、よく理解できないが、とにかく、一族と同じようなものらしい。そして安心できる家にちがいない。
彼は、青墓青墓と、 いて歩いた。そのうちに、大きな川べりへ出た。川舟を洗っていた鵜匠うしょう らしい男が、彼を見かけて、
「あなたは、源氏の内の、しかるべきお方の御曹司おんぞうし でしょう」 と、たずねた。
一言で言い当てられたので、頼朝は、かくさなかった。
「義朝の三男、右兵衛佐うひょうえのすけ 頼朝よりとも です」
鵜匠は、さてこそといったような顔つきで、自分の兄弟たちは、都で源氏の雑色ぞうしき でした。おひとり歩きは物騒です。どこまでいらっしゃるのか、とにかくわたくしの漁小屋までおいでください。と頼朝を誘った。
その漁小屋に二日ほどかくま われて、頼朝は鵜匠の男を案内に、やがて青墓の宿に着いた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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