〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/20 (土) 落 伍 (三)

佐藤式部と平賀四郎が、さらに遠くまで戻ろうと言うと、義朝の沈痛な声が、急に、否と、止めた。それは、三千大千世界に大雪をふる う空よりも暗然たる悲しみと自制を込めた声であったけれど、
「待て、待て、それには及ばぬ、はぐ れた者を、いちいち拾って歩けぬのは、落武者の負う、かなしいなら いだ」
と、言った。
切々と、雪が鳴る。雪つむじが、複雑な旋律をえがく。
飛沫しぶきふち にかたまり合う魚のように、七騎の影は、寄り添った。そしてたれひとり、義朝のおもて を、見られなかった。かぶと眉廂まびさし に、氷柱つらら を垂れ、睫毛まつげ に雪をとめて、うつ向いていた。
「とかくするうち、夜が明けよう。街道に人を見ない間に、道を変えて、山地へ入り込んでしまわねば、のが れる望みは絶え果てる。ひとりの頼朝は欠けても、ここにいるこれだけの者が、地下に耐え、草の根に忍び、再起の日を念じておれば、いつか源氏に恵む春の日もめぐ って来よう。── 惜しむな、惜しむな、頼朝ひとりと、源氏の将来とを、換えるわけにはゆかぬ」
義朝の言葉の終わるのを待ちかねて、鎌田兵衛も、平賀四郎も、口々叫んだ。
「それは余りなお気強さです」 と。そして佐渡式部もまた、一しょにいさ めた。
「若殿方三名のうちでは、お年もいちばん幼く、とりわけ、お心も優しい佐殿すけどの を、この雪中にお見捨てあっては、一生、御後悔のたねとなり、あわれ、むご き親かなと、世のそし りにもいわれましょう。ままよ、明日は明日の運まかせとしても、ここは道を引き返して、佐殿をお見出し申さねば、われらとて先へ進むにも進まれません。── やよおのおの、手分けをして、もう一度、佐殿を呼ばわり給え」
と、駒首を向け直して、みな後へ駆けようとした。
「いや待て。こころざし は、うれしいが、義朝とて、可愛くない子ではない。けれど、敵地に子を捨て去る非情も、今の義朝の場合、それも父の愛ぞと、思い つしか思案はないのだ。やぶ れても義朝はなお源氏の総帥そうすい 、左右数騎のものばかりか、東国の野には、我を一党の親とも大将ともたの んでいるやから がたくさんいるを思えば、頼朝ひとりの親ではない。可愛いといったら、おれは無数の可愛い者を抱いている身だ・・・・」
語気をかえると、義朝は、きつ と、吹雪の闇へ向かって合掌した。そしていの るように言った。
「あわれ、こよいの荒天よ。一子頼朝を、いかようにも、試みよかし。── もし運命これまでの者ならば、こご え死なし給え。またもし行く末、何かなす者ならば、風雪のきた えを、大慈悲の恵みとして、生かし給え。八幡、守らせ給え」
そして彼は、断ちがたい絆の迷いを、一断したようなはず みを姿に持ち直して、
「もう、返り見するな。さ、急ごう。明けぬ間に」
「と、真っ先に、駆けてしまった。
ぜひなく、他の人びとも、それには続いた。義朝の後を追いかけた。── けれど、若党の金王丸だけは、義平や朝長と何か眼まぜをかわしてあとに残った。そしてやがて、彼一人は、西の方へ戻って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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