〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/19 (金) 落 伍 (一)

湖心は風浪が高かった。
北越おろ しの強い日は、琵琶湖びわこ も海とかわらない。
ゆうべ越えた比叡ひえい や京方面は、青い空の下にあるのに、しずたけ から北近江きたおうみ息吹山いぶきやま あたりまで、半円の他界は、動かない密雲の層と灰色の日蔭を大きく横たえていた。
「北は未だ大雪だ。ゆくての道も、あの空では」
さだきだに、落人おちうど たちは、世の狭さを、行路の難にも、思い知らされた。
けさ、堅田かただ の浦を出た二そう の船は、 みに揉まれて、ひる ごろもなお、湖上にもてあそばれていた。
帆を張れば ── だが、帆を張ると、江岸の敵の目にふれやすい。こんな日、すなど り舟も出ているわけはないからだ。
山野の操馬そうば にも練達な坂東武者ばんどうむしゃ も、風浪には、意気地もない。負けいくさ の気くずれもあり、夜来の疲れも、一通りではないが、船酔いに、色青ざめている顔すら見ええる。
はきかないし。── 浪まかせ、風まかせ、なんと、おれどもの運命と、そのままよ」
義朝以下、この中で、海に れている者と言えば、三浦荒次郎義澄と佐渡式部重成ぐらいなものだった。二人は、ふなべり に立ってかじ を取りながら、風の中で、笑いあった。
こま から上に出ているのは、その二人と、数頭の馬の首だけだった。ほかは声もなく、敗残の身を、船底にかが めあっている。
船は、やっと、東近江の野洲やす 川尻かわじり に着いた。義平や頼朝たちの乗っているべつの一艘もあとから着いた。
馬数頭、人十数名、枯れあし に立った。人びとは無量な思いをひとみ に込めて、低い雲の下を渡って行くこう の群れを見あげるのだった。
東近江の雪は都より深い。しかもまだ降り足らない空模様に見える。
「夜を待とう。街道には、平家の布令ふれ もまわっているに違いない」
「義朝の考えも、たれの思慮も一つだった。板子を割り、とま いて、だん を取った。体を温めた次には、人間の食糧と、馬の飼糧かいば の算だん・・ である。それには、岡部六弥太と猪俣いのまた 小平六が、
「お案じなされますな民家を訪うて、なんとかいたしてまいります」
と、出かけて行った。
二人はやがて、附近の漁師たちをかたらって、食糧を運ばせて返って来た。着ていた具足やよろい を脱いで、食糧と交換したのであると言う。なお、漁師たちに秘密を守らすため、他の人びとも、酒代を与えた。
こうして、夜を待つ間に、将来のけい も相談された。その結果、波多野十郎、三浦義澄、平山武者所、熊谷次郎、足立右馬允うまのすけ 、金子十郎、岡部六弥太などは、
「では、おいとま をいただいて、ひとまず、ちりぢりに別れましょう。やがて、東国で再会の日を期して」
と、たそがれごろから、思い思いに、蓑笠みのかさ をかぶって、落ちて行った。
自衛上、できるだけ少数になることが、賢明と考えられたからである。── で義朝の組には、三人の息子と、四人の郎党だけが残った。最小限の人数である。
夜になった。
別れた人びとは、みな徒歩で落ちて行ったので、あとの義朝たちには馬も足りた。八名とも騎馬で、野洲川づたい、街道に出、忍びやかな、そして寸前も測りがたい落人行おちうどこう の旅を続けた。
暗々あんあん と何か気流すものがありながら、一天、墨を いた様な夜空には、伊吹、不破、霊仙りょうぜん などの山々が、真っ白に、ふだんよりは峩々がが として、けわしい山容を示している。それはちょうど、梁楷りょうかい馬遠ばえん などという宋代の画人がよく描く 「雪山羇旅図きりょず 」 に似ていた。雪の大岳おおだけ と、小さい人馬の点景とが、そのまま東洋的な画ともいえる。
部落部落も、みな厚ぼったい雪の下に眠っている。もる灯影ほかげ はなし、人の影も声もない。世間がそっくり消えてしまったようである。道をはかどるには絶好な夜と、落武者たちは、急ぎに急いだ。
しかい、雪風はまた、ひょうひょうと えはじめて、ゆくての白いやみに、りん のようなまんじ を描き、八騎の肩にもくら にも、吹きつもった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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