湖心は風浪が高かった。 北越颪
しの強い日は、琵琶湖びわこ も海とかわらない。 ゆうべ越えた比叡ひえい
や京方面は、青い空の下にあるのに、賤しず
ヶ嶽たけ から北近江きたおうみ
、息吹山いぶきやま あたりまで、半円の他界は、動かない密雲の層と灰色の日蔭を大きく横たえていた。 「北は未だ大雪だ。ゆくての道も、あの空では」 さだきだに、落人おちうど
たちは、世の狭さを、行路の難にも、思い知らされた。 けさ、堅田かただ
の浦を出た二艘そう の船は、揉も
みに揉まれて、午ひる ごろもなお、湖上にもてあそばれていた。 帆を張れば
── だが、帆を張ると、江岸の敵の目にふれやすい。こんな日、漁すなど
り舟も出ているわけはないからだ。 山野の操馬そうば
にも練達な坂東武者ばんどうむしゃ
も、風浪には、意気地もない。負け戦いくさ
の気くずれもあり、夜来の疲れも、一通りではないが、船酔いに、色青ざめている顔すら見ええる。 「櫓ろ
はきかないし。── 浪まかせ、風まかせ、なんと、おれどもの運命と、そのままよ」 義朝以下、この中で、海に馴な
れている者と言えば、三浦荒次郎義澄と佐渡式部重成ぐらいなものだった。二人は、舷ふなべり
に立って舵かじ を取りながら、風の中で、笑いあった。 苫こま
から上に出ているのは、その二人と、数頭の馬の首だけだった。ほかは声もなく、敗残の身を、船底に屈かが
めあっている。 船は、やっと、東近江の野洲やす
川尻かわじり に着いた。義平や頼朝たちの乗っているべつの一艘もあとから着いた。 馬数頭、人十数名、枯れ芦あし
の洲す に立った。人びとは無量な思いを眸ひとみ
に込めて、低い雲の下を渡って行く鴻こう
の群れを見あげるのだった。 東近江の雪は都より深い。しかもまだ降り足らない空模様に見える。 「夜を待とう。街道には、平家の布令ふれ
もまわっているに違いない」 「義朝の考えも、たれの思慮も一つだった。板子を割り、苫とま
を焚た いて、暖だん
を取った。体を温めた次には、人間の食糧と、馬の飼糧かいば
の算だん・・ である。それには、岡部六弥太と猪俣いのまた
小平六が、 「お案じなされますな民家を訪うて、なんとかいたしてまいります」 と、出かけて行った。 二人はやがて、附近の漁師たちをかたらって、食糧を運ばせて返って来た。着ていた具足や鎧よろい
を脱いで、食糧と交換したのであると言う。なお、漁師たちに秘密を守らすため、他の人びとも、酒代を与えた。 こうして、夜を待つ間に、将来の計けい
も相談された。その結果、波多野十郎、三浦義澄、平山武者所、熊谷次郎、足立右馬允うまのすけ
、金子十郎、岡部六弥太などは、 「では、お暇いとま
をいただいて、ひとまず、ちりぢりに別れましょう。やがて、東国で再会の日を期して」 と、たそがれごろから、思い思いに、蓑笠みのかさ
をかぶって、落ちて行った。 自衛上、できるだけ少数になることが、賢明と考えられたからである。── で義朝の組には、三人の息子と、四人の郎党だけが残った。最小限の人数である。 夜になった。 別れた人びとは、みな徒歩で落ちて行ったので、あとの義朝たちには馬も足りた。八名とも騎馬で、野洲川づたい、街道に出、忍びやかな、そして寸前も測りがたい落人行おちうどこう
の旅を続けた。 暗々あんあん
と何か気流すものがありながら、一天、墨を溶と
いた様な夜空には、伊吹、不破、霊仙りょうぜん
などの山々が、真っ白に、ふだんよりは峩々がが
として、けわしい山容を示している。それはちょうど、梁楷りょうかい
や馬遠ばえん などという宋代の画人がよく描く
「雪山羇旅図きりょず 」 に似ていた。雪の大岳おおだけ
と、小さい人馬の点景とが、そのまま東洋的な画ともいえる。 部落部落も、みな厚ぼったい雪の下に眠っている。もる灯影ほかげ
はなし、人の影も声もない。世間がそっくり消えてしまったようである。道をはかどるには絶好な夜と、落武者たちは、急ぎに急いだ。 しかい、雪風はまた、ひょうひょうと咆ほ
えはじめて、ゆくての白いやみに、燐りん
のような卍まんじ を描き、八騎の肩にも鞍くら
にも、吹きつもった。 |