〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻
2013/04/16 (火)
餓
(
が
)
鬼
(
き
)
国
(
こく
)
管
(
かん
)
弦
(
げん
)
楽
(
がく
)
(二)
たそがれ、清盛は、御前を
退
(
さ
)
がって、表の
侍所
(
さむらいどころ
)
を、のぞいた。合戦直後から、ここを臨時の
庁
(
ちょう
)
とし、時忠を主任として、市民の
公事
(
くじ
)
、取締りなどを
司
(
つかさ
)
どらせていたのである。
「忙しいか。時忠」
「いやもう、いろいろのことを、申してまいりまする。源氏武者が、どこに
匿
(
かく
)
れておるとかいう密訴やら。我が子が、源氏方の旗持ちに、召されて、やむなく
戦
(
いくさ
)
には出たが、心の底からの源氏者ではございませぬゆえ、
御赦免
(
ごしゃめん
)
にあずかりたいなどと名乗り出る者やらで」
「
小者
(
こもの
)
詮議
(
せんぎ
)
はするな。余りには」
「はや、遊女町の区画などは、願い出てくる
市人
(
いちびと
)
もございますが、しかって、追い返しました」
「ははは、それは平家にとって、吉瑞だろうに。まだ、
乱
(
らん
)
がつづくと思えば、願い出ては来ぬ。時忠、お
汝
(
こと
)
には、こういう
庁
(
ちょう
)
の事務は、
真
(
ま
)
向きだな」
「心外な仰せごとです。なぜか、時忠には、先陣を駆けよとお命じ下さいませんでしたが、さては、そういう思し召しであったのか」
「いや、お
汝
(
こと
)
を、
臆病者
(
おくびょうもの
)
とは、ゆめゆめ思わぬが、こう見ておると、お汝の手腕は、やはり弓馬より文事にあるぞ。清盛とて、そうだ。おれは
軍
(
いくさ
)
は、上手でもないし、好きでもない。武芸と武芸の
業
(
わざ
)
なれば、おれは義朝の敵でないし、六波羅武者は坂東武者の
馬馴
(
うまな
)
れや
弓勢
(
ゆんぜい
)
に、到底、及ぶものではない」
「そんなことはありますまい。義朝は、敗れたではございませんか」
「なんの、義朝、義平などは、さすが、源氏の名を辱かしめていないぞ。義朝の
亡
(
ほろ
)
んだのは、余りにそれ、武魂というだけで、世間にうとく、人を見ること単純で、しかも政治に欠けていたからだ。もし、
信西
(
しんぜい
)
入道
(
にゅうどう
)
が生きていたら、おそらく、義朝ごときは、弓矢も用いず、自滅を余儀なくさせていただろう。── 義朝もまた、それを知ったために、もがきもしたのだ。地の利、人の利、天の利を待ちきれず、あえて、まずい合戦をしでかしてしまったものとむえる。敵ながら、あわれやの」
「・・・・あ。申し忘れておりましたが」
時忠は、ふいに言い出した。小侍が、そこらの
燭台
(
しょくだい
)
へ、灯を点じて行ったので、とたんに、庁の門を閉める時刻と一しょに思い出したものとみえる。
「じつは、昼から、ぜひぜひ、今日の内に、御裁許を得て、
国許
(
くにもと
)
の丹波とやらへ帰りたいと申し張って、
公事人
(
くじにん
)
の控えに、待ち構えておる老人がございますが、時忠の一存にも計らいかね、待たせてありまする。・・・・ちょっと、その者の祈願の
文書
(
もんじょ
)
を、御一見くださいましょうか」
「・・・・どれ」
と、清盛は、彼の差し出す書類を手に取った。時忠は、
燭
(
しょく
)
を、そばへ寄せる。清盛は、一読した。余りいい顔つきではない。と思うと、投げやるように、時忠のひざの前へ返した。
「祈願の者は、もとの丹波の
国庁
(
こくちょう
)
の地方吏、石堂
監物
(
けんもつ
)
というこの老人だな、それが、待っているのか」
「はい」
「ちょっと、
廊
(
ろう
)
の端へ呼べ」
時忠は、立って行った。
まもなく、小侍二人に連れられて、
柿色
(
かきいろ
)
衣を着た老入道が、板じきへ、平伏した。
「そちか、
右衛門督
(
うえもんのかみ
)
信頼
(
のぶより
)
に召し上げられた丹波の田地を、信頼が死んだうえは、返して欲しいと、訴えに出たのは」
「されば、六波羅殿の御武威と、お慈悲をもって、御仁政にあずかりたいと、早速にも、丹波から出て参った者にござりまする」
「聞いておったよ、侍どものうわさにも。── が、うわさには、昨夕、そちは信頼の
亡骸
(
なきがら
)
を、群集の見ている中で、つえで打ったそうだな。つえで、幾たびも」
「はい、はい。我らが家の者を、この
幾年
(
いくとせ
)
も、
飢寒
(
きかん
)
のうめきにあわせた
憎
(
にく
)
い憎い
右衛門督
(
うえもんのかみ
)
。あな心地よや、ざまこそ見よと、首になるのを見ておりましたが、なお、無念ばらしに、つえを、
骸
(
むくろ
)
に加えてくれました」
「よい気持だったのか」
「まことに、胸が、はれました」
「ならば、もうよいではないか。そのうえ、欲をかかずとも」
「いや、ど、どう致しまして」 と、監物はあわて出して 「その儀と、お願いの儀とは、道理が違いまする。何とぞ、かくべつに、旧所領には、御仁政のお
沙汰
(
さた
)
のほどを」
「仁政を、とか」
「ひとえに、
御徳
(
おんとく
)
にすがり申して」
「ははは、虫のいいやつ」
清盛は笑い出した。
そして、ずかと立って、廊の端へ出たと思うと、声を大きくして、
「虫がいいのみではなく、そちは、悪いやつだ。たとえ、信頼のような人でも、
非業
(
ひごう
)
な末路には、あわれをこそ思え、涙のひとつも手向けてこそ、人と人との世の中ぞよ。
亡骸
(
なきがら
)
を打つなどとは、もってのほかな
業
(
わざ
)
だ。
鬼畜
(
きちく
)
のすることだ。そのうえなお、欲をえがいて、
公
(
おおやけ
)
の仁政を願い、ひとの徳にすがらんとは、言語道断」
いきなり
踵
(
かかと
)
をあげ、監物の横顔のあたりを
蹴
(
け
)
とばした。柿色の入道は、わっと、おめきながら、廊の下へころげ落ちた。腰を押さえて、立ち惑い、くるくる舞いして、平門の外へ逃げ出して行くのを、清盛は、腹を抱えて見送った。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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