〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/16 (火) す す は ら い (二)

「父上。ちょっと、お待ち下さい」
呼び止める声に、清盛は、ふり向いた。いま、天機を拝して、たい のわが居間へ退 って来た細殿ほそどの の朝である。
「重盛か。どうだ、今朝あたり、まち の様子は」
「一巡して、見てまわりましたところ、もはや市人いちびと も、日ごろのように市を開き、店屋てんや も物を並べ、常のように、回っております」
「諸所への、布令ふれ は」
辻々つじつじ に、立てさせました」
「街の者の安心が第一だからな。ご苦労、ご苦労。おもと は、おとといから、まだ、具足も脱いでおるまいに」
「若いのです。疲れは知りません」
「いまも、主上のおん前で、お許と、悪源太との、一騎一騎の勝負を見たと言う者のうわさが、叡聞えいぶん に達していたぞ」
「そうですか」
と重盛は、さりげない。ほかの用向きを言い出したいのに、父はなお、しゃべりやまなかった。
「子を められて、うれしくない親はない。親のおれは、聞くだに、鼻が高かったよ」
「あの。父上」
「池ノ尼殿から、お許も、聞くであろうが、そのくせ、おれは父忠盛へは、、あまり孝行者ではなかったのにな。ははは。・・・・ときに、昨夜、頼盛に申し付けてやった仁和寺の内には、あきれるほど、雑魚ざこ 大魚たいぎょ が、隠れていたというではないか」
「はい。それで、そのことについて」
「なんだ」
「ここでは、恐れ入ります」
「すわろうか」
「細殿は、火の気もございません。お居間で、お き下さいましょうか」
「対ノ屋には、けさ、山から帰った時子やら、幼い者が、部屋のある限りに、あふれている。立ち話でいい。なんだ、用とは」
「越後どのを、お助け下さいませ」
「越後中将成親をか。・・・・それは出来ぬ。いま御前で、信頼の死罪も決められたばかりのところだ」
「越後どのは、善人です」
「それやあ、信頼だって、悪人ではないよ。 悪戯いたずら の好きな ンちにすぎぬ」
「じつは、わたくし、あの越後どのには、宮中の出仕のままだ慣れぬころ、よく親切にしていただいた恩があります。少年のころの記憶のせいか、忘れ難く思っていました。── と今、街を見てまわって戻り、うまや へ馬を入れますと、一つの馬房ばぼう の前に、越前どのが、くく りつけられて、オオ、大弐どのの公達よ、とわたくしを呼ぶではございませんか」
「それで、泣きつかれたか」
「父上、私の軍功に代えて、あのお人の一命を、お助けくださるように。主上へもお願いしてください」
「ま、考えておこう」
「でも、今日はもう、重罪の人びとは、河原で斬られると、聞いていますが」
「だから、考えておこうというのだ。── が。重盛。余り召捕人どものいる所へ、姿を見せるなよ。見せたら、地獄へ、地蔵じぞう 菩薩ぼさつ観世音かんぜおん りたようなものになるぞ」
うわさの通り、その日、六条河原で、幾人もの謀反人むほんにんが、死刑になった。が、越後中将は、呼び出されなかった。
夕方のさいごに、信頼が、引き出された。
信頼は、一日中、号泣ごうきゅう して、哀訴していたが、ついにゆる されなかったものである。
河原での太刀取りは、松浦太郎重俊がつとめた。
が、どうしても、観念しない。
泣く、あばれる、もがく。
斬り損じたため、重俊は、かき首にして、検証のために、持ち帰った。
── すると、なお立ち去らない見物の群れから、年七十ぢかい、柿色かきいろ布直垂ぬのひたたれを着た入道が、旅づえをつき、文書袋もんじょぶくろを首にかけて、大勢をかき分けながら、そこへ出て来た。
人びとは見て、
「あわれ、年来としごろ 、信頼に仕えた下部しもべ が、主の亡骸なきがら を収めてゆくのか」
と思っていると、そうではなく、その老人は、はったと、死骸しばい をねめつけ、
「やおれ、おのれの死にざまよ。あの世まで、思い知れかし」
と、杖を振り上げて、何度も何度も、打つのであった。そして、見物たちへ向い、
「聞けよ、いちしゅう 。おいどは、丹波たんば国庁こくちょう 、石堂監物けんもつ というものじゃがよ。相伝そうでん の所領を、この右衛門督信頼に没収され、わが身を始め、せがれ夫婦の眷族けんぞく まで、数年、 飢寒きかん にさらされたのじゃ。好んで、むご い真似をするのではないが、こうでもせねば、無念が えぬわな・・・・あな心地よし、いくらか、腹がいえたぞ」
と、演舌して、立ち去った。
群集の眼は、かえって、老入道の背を、いやしみ、憎んで見送った。初めは、信頼の死に方を笑って見ていた群集だったが、他人が、死者にむち つのを見ると、自分たちの心のうちにあった残忍なものに気づいて、何か、いやな気持に陥ってしまったのである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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