仁和
寺には、さきに、内裏の一本
御書所 を脱出された後白河上皇がおいでになる。 信頼は、寺僧や近衆を通して、手を合わせないばかりにすがった。 「信頼です。今さら、拝謁
を願えた義理ではございませんが、一期
のおん憐 れみに、お目にかからせてください。小坪の御縁先からでも厭
いません」 身の皮を追剥
とられたので、この冬の朝を、信頼は下着の大白衣
一枚で震えていた。おかしくもあり、余りに、みじめでもあった。 本来、上皇としては、たれよりもお憎しみあるはずのかれである。が、信頼の家柄や、かれの父の功なども、お考えに入れて、単に、 「あわれな、不肖児よ」 という程度に、軽く、謁
を許されたのか、衣服を与えて、そっと、寺院の奥で、お会いになった。 そこで信頼が、どんなに、身もだえして、悔いや、お詫
びを、繰り返したかは、いうまでもない。 退きさがって来た時の、かれの顔は、雑巾
でこすったように涙で、よごれていた。 「隠れていよ。主上へ、とりなしてやる」 お怒りはなく、かえって、上皇はそう仰
ったらしい。信頼はやっと人心地を取り戻した、仁和寺の一房に潜んでいた。 「あつかましいお人よ」 と、みな浅ましく思った。 戦争の張本人ではないか。勝つための手段には。天皇、上皇を監禁し奉って、あんな目におあわせ申した元凶ではないか。たとえ、火あぶり、はりつけの御成敗があっても、御無理はないとされているのに、その信頼に泣きこまれると、すぐもう、あわれやと、お庇
いになる上皇の御心の寛
さ ── というよりも、お人のよさ、人びとは、あきれもするのだった。 だが、こういう “お人のよさ” というものは、公卿大臣にもない、武門の将領にも見られない、一種の
“皇室人格” というものかも知れない。どんなに自身を騙
り迫害した相手にでも、そして一度は憎みはしても、その憎しみを、到底、自己の心の中に長くとどめておかれない ── むしろ、許すことによって、自己も救われ自己の心も清められたいと祈るようなお気持が、皇室育ちの御性格には、自然、共通するのではあるまいか。 そこをまた公卿どもはよく知っている。 由来、仁和寺には、法親王宮もおられるので、朝廷とは、ほとんど、家庭的には一つと言ってよい関係にあるところから、保元の時もそうだったが、今度の戦いでも、敗北者の方に与
した公卿朝臣 は、「これは、いけない」
と思うと、みな法親王や上皇を頼って、ここの門へ、逃げ込んできた。仁和寺はまるでかれらの命乞いをするための “駆け込み寺” みたいな観があった。 その一人ひとりが、 「わたくしは、陰謀にも、戦争にも、初めから反対でしたが、右衛門督
とは、家と家の縁故もあり、職務の上や、周
りの者の脅 しに、つい唆
されて加わっただけのものです」 と、たれの言い分けも大同小異で、要は、一命欲しさの哀訴であった。 その日、上皇から六波羅の仮御所へ、何度もお使いが立てられた。 (朕
ヲ恃 ンデ参リタル不愍
ナ者ナレバ、枉 ゲテ助ケ措
カセ給ヘ) と、ねんごろな御書状であったと言われる。 しかし、夜に入って、三度目の使いがまだ帰って来ないうちに、三河守頼盛と淡路守教盛
を大将とした三百余騎が、松明
に空に焦 がして、仁和寺をとりまき、右衛門督信頼以下、寺内に潜んでいた一味の公卿を、ことごとく引きずり出して、縄
付 きにしてしまった。 数珠
つなぎという文字通りだ。顔を見ると、いるもいたり、伏見中納言師仲
だの、越後中将成親だの、また河内守李実、李守の父子など、五十余名という朝臣
やさむらいが、今は、無気力な青白い面
を伏せて、残雪 の上を歩ませられ、風も肌
を刺すばかりな真夜半を、六波羅へと、運び去られた。 |