〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/16 (火) す す は ら い (一)

仁和にんな 寺には、さきに、内裏の一本いっぽんの 御書所ごしょどころ を脱出された後白河上皇がおいでになる。
信頼は、寺僧や近衆を通して、手を合わせないばかりにすがった。
「信頼です。今さら、拝謁はいえつ を願えた義理ではございませんが、一 のおんあわ れみに、お目にかからせてください。小坪の御縁先からでもいと いません」
身の皮を追剥おいはぎ とられたので、この冬の朝を、信頼は下着の大白衣おおびゃくえ 一枚で震えていた。おかしくもあり、余りに、みじめでもあった。
本来、上皇としては、たれよりもお憎しみあるはずのかれである。が、信頼の家柄や、かれの父の功なども、お考えに入れて、単に、
「あわれな、不肖児よ」
という程度に、軽く、えつ を許されたのか、衣服を与えて、そっと、寺院の奥で、お会いになった。
そこで信頼が、どんなに、身もだえして、悔いや、お びを、繰り返したかは、いうまでもない。
退きさがって来た時の、かれの顔は、雑巾ぞうきん でこすったように涙で、よごれていた。
「隠れていよ。主上へ、とりなしてやる」
お怒りはなく、かえって、上皇はそう ったらしい。信頼はやっと人心地を取り戻した、仁和寺の一房に潜んでいた。
「あつかましいお人よ」
と、みな浅ましく思った。
戦争の張本人ではないか。勝つための手段には。天皇、上皇を監禁し奉って、あんな目におあわせ申した元凶ではないか。たとえ、火あぶり、はりつけの御成敗があっても、御無理はないとされているのに、その信頼に泣きこまれると、すぐもう、あわれやと、おかば いになる上皇の御心のひろ さ ── というよりも、お人のよさ、人びとは、あきれもするのだった。
だが、こういう “お人のよさ” というものは、公卿大臣にもない、武門の将領にも見られない、一種の “皇室人格” というものかも知れない。どんなに自身をたばか り迫害した相手にでも、そして一度は憎みはしても、その憎しみを、到底、自己の心の中に長くとどめておかれない ── むしろ、許すことによって、自己も救われ自己の心も清められたいと祈るようなお気持が、皇室育ちの御性格には、自然、共通するのではあるまいか。
そこをまた公卿どもはよく知っている。
由来、仁和寺には、法親王宮ほつしんのうのみやもおられるので、朝廷とは、ほとんど、家庭的には一つと言ってよい関係にあるところから、保元の時もそうだったが、今度の戦いでも、敗北者の方にくみ した公卿朝臣あそん は、「これは、いけない」 と思うと、みな法親王や上皇を頼って、ここの門へ、逃げ込んできた。仁和寺はまるでかれらの命乞いをするための “駆け込み寺” みたいな観があった。
その一人ひとりが、
「わたくしは、陰謀にも、戦争にも、初めから反対でしたが、右衛門督うえもんのかみ とは、家と家の縁故もあり、職務の上や、まわ りの者のおど しに、ついそそのか されて加わっただけのものです」
と、たれの言い分けも大同小異で、要は、一命欲しさの哀訴であった。
その日、上皇から六波羅の仮御所へ、何度もお使いが立てられた。
チンタノ ンデ参リタル不愍フビン ナ者ナレバ、 ゲテ助ケ カセ給ヘ)
と、ねんごろな御書状であったと言われる。
しかし、夜に入って、三度目の使いがまだ帰って来ないうちに、三河守頼盛と淡路守教盛のりもり を大将とした三百余騎が、松明たいまつ に空に がして、仁和寺をとりまき、右衛門督信頼以下、寺内に潜んでいた一味の公卿を、ことごとく引きずり出して、なわ きにしてしまった。
数珠じゅず つなぎという文字通りだ。顔を見ると、いるもいたり、伏見中納言師仲もろなか だの、越後中将成親だの、また河内守李実、李守の父子など、五十余名という朝臣あそん やさむらいが、今は、無気力な青白いおもて を伏せて、残雪ざんせつ の上を歩ませられ、風もはだ を刺すばかりな真夜半を、六波羅へと、運び去られた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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