〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/16 (火) おおかみ (二)

左馬頭さまのかみ 、左馬頭。・・・・約束が違うであろうが」
たれかとおも えば、右衛うえ 門督もんのかみ 信頼のぶより だった。
武装したよわ 公卿くげ 六、七人と、雑色四十人ほどに守られ、馬も人もへなへなになりながらも、追いついて来たものらしい。
「なに、信頼卿だと」
義朝は自分から馬を近づけて行き、かれと、おもて を見合すやいなや、胸のつかえを吐き出すように言った。
「今となって、申すではないが、あなたの顔は、見るのもいやだ。ムシ が走る。おそらく、あなたも、義朝の顔を見るのは好まれないはずだ。何しに、義朝を慕って来られたか」
「や、や。頭殿こうのとの は、そんなお心か」
「お心かとは」
「ふたりは味方ではないか」
「さらばよ、悪縁の ──」
「負けたゆえに、悪縁というか。そもそも合戦の始めに、和殿わどの はなんと言われたぞ。こと破れなば、東国へくだ って、再挙をはからん。そのおりには、麿まろ もともにと約したではないか」
「生死も一つと、誓えばこそ、あなたにも、そう申したのだ。ところが、あなたの総帥そうすい ぶりは、どうだったか。いつ、あなたは義朝と一緒に戦ったか」
「そ、それは、この麿まろ の任ではない。あわれ、心変わりかや、義朝」
「ああ。無念。女のごと にも似たその愚痴のばからしさよ。こんな者を盟主となし、多数の人をうしの うた自分のばかにも腹が立つ。── ええい、見るもしゃく な、公卿くげ づら よ」
さっきから握り震えていた手のむち を振り上げると、義朝は、いきなり、信頼の左のほお を、びしりっと、撲りつけた。
「・・・・わっ。こは何事」
信頼は、顔をおさえて、馬のうなじへ、 っ伏した。すると、かれの従者の式部助吉という者が、
頭殿こうのとの よ。あなたも、いくさ に負けて、逆上しているのか。わが主人を、とやかく言うが、武者の大将たるあなたが、もっと知略もあり、心も剛ならば、こんな敗れはありはしない。なんじゃ、ひちにせいばかりにして」
と、ただ一人、ほえるように、ののしった。
義朝は、ぎくと黙った。── が、式部がなお食ってかかりそうなので、
「あの男に、物いわすな」
と、左右の者に、そこをまかせて、先に馬をやってしまった。
この夜、堅田かただ までの山中で、義朝主従は、なお二度まで、山法師の狼群ろうぐん に襲われた。
陸奥六郎義隆が、犠牲になり、また、頼朝の兄朝長が、深股ふかもも に、重傷を負った。
けれど、ようやく、龍花りゅうげ を越えて、明け方近くに、堅田の浦に出、船を拾って、湖上へのがれた。岸を離れるや、人も馬も、きのうからの疲れに、綿のようになって舟底に寝くたれた。──とまれ八幡太郎義家以来、都にかくれなき武門の棟梁とうりょう として諸州に聞こえていた六条源氏の一門も、今は、波間にただよう一葉の舟そのままなすがた とはなった。
── その明け方。
一方、義朝に振り捨てられた信頼は、夜もすがら、山の狼僧に追われて、越えもならず、また、人里の方へ、引っ返していた。
従者の兵も、いつか、ちりぢりに逃げうせてしまい、なお、馬の口輪についていたのは、式部助吉一人だった。
「この辺りで、少しお休みなされませ。干飯ほしい を洗うて、水粥みずがゆ にてまい らせましょうほどに」
「いや、 もじいが、食べたくもない。・・・・式部よ、わしをどこぞ、生命いのち ある所へ連れて行ってくれ」
「さて、いずちへ、落ちましょうぞ」
「試案もない。いずちへなりと、連れて行け」
いっているところへ、もう朝なのに、こわ らしい狼僧どもが、ぞろぞろ来て、
「おう、これは、よい物の具を着ておる」
「太刀もすぐれた品」
まず しからぬよそお い。鎧下よろいした も、さだめし、よい物、着ていようぞ」
大薙刀を突きつけて、ぐるりと、取り囲み、否応もなく、主従二人の身の皮をはいでしまった。
くら も置いて行け、鞍も。── が、馬だけは、くれてやる。どこへなと、行きさらせ」
よい稼ぎを祝し合うように、狼たちは、笑いどよめいて、山の方へ立ち去った。
白絹の肌着はだぎ ひとえの姿で、裸馬の背にすがりつき、信頼は、その日、やがて仁和にんな の門へ行って、泣きついていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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