〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/16 (火) おおかみ (一)

「ともあれ東国へさして落ちのびよう。美濃みの青墓あおはか宿しゅく まで行けば、有縁うえん の者がいる。後図こうと も、何かの相談も、ひとまず、美濃に落ち着いたうえで」
と、義朝主従は、夜のうちに、比叡ひえい を越えるつもりで、高野川に沿い、龍花りゅうげ のふもとを、なお急いでいた。
すると行くてに、一群の法師武者が、陣を して、路をはば めていた。その数、三百近くもいようか。手に手に大薙刀おおなぎなた を持ち、物見の法師が、何か合図したらしく、まだ遠いうちから、
「それっ。来たというぞ。ぬかるな」
と、戦闘的な殺気を示し、急に、ひしめき合い出した。
義朝たちは、はばかって、馬を、少しあとへかえ した。
「あれは、横川よかわ の法師よな」
「そうです。きのうまでは、源氏の頭殿こうのとの と聞けば、 じ恐れたものですが、今は、落人おちうどあなど って、われらの物の具を ぎ取ろうとするのでしょう」
「人を助けるのが身の勤めでありながら、落武者の弱みを おびや かして、物を剥ごうとする者か」
「合戦と聞けば、かれらの中の悪僧は、よい稼ぎはこの時と、野盗やとう に変じて、野や山に待ち伏せるのがならいです。この先とも、野盗の難は、お覚悟あらねばなりますまい」
「憎い悪僧ども、兵衛、六郎、実盛。おれにつづけ。 らしてやる」
義朝は怒って、法師ほうし ばら を相手に、一戦を辞さない気色だったが、人びとはかたくいさ めた。衆寡敵せずである。また一夜に組織や官職から離れた者の当然味わうべき落人の身の弱さでもある、哀れさでもある。
可惜あたら生命いのち よと、落ちのびて来たものを、こんなものに運命を ける手はありません。わたくしが、彼らの油断を作りますから、すきを計って、方々かたがた は一せいに駆け通ってください」
斉藤実盛は、ただ一騎で、悪法師のむらがりへ近づいて行った。そして、いかにも じたようにこう言った。
「これは、源氏のかり 武者むしゃ が、恥も捨てて本国の妻子を見んために、落ちて行く者です。所持の品や物の具はみなまい らせますゆえ、どうか、見逃していただきたい。── けれど、衆徒は多勢、われらの連れは小勢です。限りある金子きんす太刀たちかぶと など、分けるほどはありません。それへ投げますから、奪い取りに、お拾いあれ」
実盛は、まず、持ち合わせていた貨幣を いた。次に、兜を脱いで、がばとほう った。小刀も持ち物も投げ与えた。
法師ばら は、それらの物へ、わっと、餓狼がろう のように、争って、屈み合った。義朝たち十四、五騎の主従は、そのすきに、馬にムチをくれて駆け抜けた。
「やおれ、おれどもを、あざむきおったな」
追いかけて来る悪法師を、実盛は逆に待ち迎えて、双眸そうぼう から光を放つような顔をして言った。
「敵も敵によるぞ。武蔵の住人長井ノ斉藤別当実盛を知らぬか。薙刀なぎなた の振りざますらわきま えもせず、打ってかかる健気けなげ を持つなら寄ってみよ。まことの武者の打物使いは、こうぞ、目に見せてやろう」
叡山えいざん に僧籍はあっても、もとよりこれらの山法師は、正しい意味の僧侶そうりょ ではない。地方にも都会にも住めない流民や、放蕩ほうとう あげくの不良だの、前科持ちだの、雑多な人間のよりあいである。
山でも、かれらは位置の低い者だった。学僧や堂衆以下の雑役僧にすぎない。かれらは常に飢えていた。神輿みこし りだの、宗門喧嘩けんか が始まれば、かれらはたちまち僧兵として中堂に動員され、偉大なる衆の力を構成する分子となるので、叡山もこれを必要として飼ってはいるが、これを食わせておくことは容易でない。そこで、かれらはときどき “飢えたるおおかみ ” と化すのであった。彼等を指して 「狼僧ろうそう 」 と書いてある古文書こもんじょ もある。
「よせ、よせ。ちと手強てごわ そうだ」
落人おちうど は、まだ後から、いくらも来る」
実盛の一喝いっかつ におじけづいた狼僧たちは、口ほどもなく、それきり追って来なかった。
しかし、叡山を越えるには、こんな狼群ろうぐん を、何度も、 り抜け、追い抜けして通らなければ、越せなかった。
落人の身につけている美々しい甲冑かっちゅう 、太刀、小道具、絹の下着などは、ひとたび都の外に出れば、こんなにも魅力で貴重だったのである。それは、叡山の狼僧に限らず、地方の農土を行っても危険は同じだった。戦場の死地から脱した落人たちは、こうしてまた、戦場以外の餓鬼に追われ追われて、道を行くのだった。
「ヤ。またぞろ、狼どもではないか」
「いや、殿の御名おんな を呼んでおりますぞ」
八瀬やせ大原おおはら から、横川の北を越え、堅田かただ へ出て、夜明けに、湖を渡ってしまおう ── といい合わせていたときである。
八瀬の松原を、あわただしく追いかけて来る一群の人影があった。狼僧とも思えず、味方とも思えない。義朝たちは、ともあれ、馬をとめて、待ってみた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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