一口に六波羅といっても、北は五条松原から、東は小松谷、西は加茂川、南は七条あたりまでの地域をいうので、合戦も一ヶ所二ヶ所ではない。 後に。 平家一門の最全盛期には、この地帯に、同族の邸宅が五千二百余宇
に及んだということであるが ──平治合戦当時には、北の車大路から東大路
の目路
(横丁) 目路
にわたり、眷族 大小の家数
、百七十余軒であったという。 で ── 源氏方はもちろん主力を清盛の居館一つにそそぎ、大部隊は、加茂川をこえて接近し、東大路方面からも、べつな一軍が迂回
作戦 をとって、包囲形をとろうとしていた。 もし、この方面の突破が、源氏に幸いしていたら、当然、六波羅は陥落し、清盛の生命は、その日までのものだったに違いない。 ところが、源氏のこの迂回部隊の方は、散々に敗れた。 原因は、坂東武者が、地勢に暗かったためである。 目路目路へ突入した源氏の兵は、巧妙な敵の伏兵や挟撃
に会って、完 く、隊伍
の形を失い、雪泥の中を潰乱
してゆくところを、松原や家々の屋根などから、射浴びせて来る矢に中
って、逃げ惑い、音羽谷や清水の丘へ、散々に、崩れてしまった。 この方面で、意気を揚げた平家方は、 「勝ったと思うのは、まだ早い。御所
へ、助 けに向かえ」 「仮御所が、危ないぞ」 と、余勢を回
して、加茂川方面の敵の主力へ、側面から、攻勢に出た。 さきに、悪源太義平に蹴散
らされて、七条辺りまで退
がった兵庫頭頼政も、そのころ、源氏のうしろを、脅かしていた。 もう寸土で、清盛の舘
とまで、攻め詰めて来ながら、形成は逆になりはじめた。義朝は、後方、側面の味方のくずれを見て、 「時を措
くな。あれ、あの二階門の櫓
にいるのが、清盛ぞ」 と、捨て身をかけて、ひた押しに、迫った。 すると、どうしたのか、主力の鋭角をなしていた悪源太の一隊が、どっと、河原の方へ、崩れ立ってしまった。 「やあ、
醜 いぞ、義平ともある者が。──
朝長、頼朝。お汝 らは、父を離れるな。父は退かぬぞ。清盛を、あの櫓より引き降ろさぬうちは」 義朝の姿に、焦躁
がみえた。こういい払うや否、弓を投げた。その意志は、白刃一閃
、身を挺 して、直ちに、二階門の下へと駆け寄せ、清盛にたいして、 「君、降り給え。一騎と一騎の勝負を決っせん」 と、呼びかけようとするものに違いなかった。 しかし、そのとき、かれの周囲の将士も、急に乱れたち、ほとんど、馬の立てようもないほど、混雑しだした。そして義朝や朝長の姿を巻き込んだまま、渦になって、大橋の下から河原一帯へ逃げなだれた。 これは、東大路の方から、新手な六波羅勢が殺到したのと、兵庫頭頼政の一手である渡辺党が、短兵急に、斬
り込んで来たことにもよるが、最大の理由は、五条の 西詰
に、思いがけない赤旗赤幟
の大部隊が現れ、疲れのない弓勢
をこなたへ向けて、義朝父子を始め、深入りしすぎた源氏の首脳を、網の中の物として来るかに見えたからだ。 「やおれ、小ざかしい敵」 悪源太義平は、それを見て、急に、われから河原へ進み、父の側面を防ごうとしたものに違いない。 けれど、このころもう洛中の諸所には、黒煙
があがっていた。それは、兵士に軍勢が辻々
に起こって、六条源氏町の界隈
をはじめ、敵と名のつく家々を焼き始めたことを意味している。 すでに大内には赤旗が立ち、市中にも 埋兵
がいるとすれば、義朝たちの位置は、まさに死地であり、孤軍の形そのものだった。 あれほど烈しく、一たんは清盛の舘
まで迫った源氏の主隊が、頼政や平家の新手に、もろくも腹背から衝
きくずされたのは、たしかに、それを感じた刹那の士気の阻喪
というほかはない。 誇りと秩序を抛
った軍勢は、もう怯者
も勇者も、ひとしい奔流
になって、加茂川上流の方へ駆けなだれた。 「ふがいなき味方よ。なんで、さは逃げ争うぞ。見ずや、義平はまだここに踏みとどまっているのを」 と、悪源太と十数騎は、なお河原に入り乱れて、新手の敵と戦っていたが、平家方は、用兵の妙をつくして、千変万化、義平を、疲らせた。 「無念だが、これまでだ。死のう、父と一緒に」 かれが、血河の中で、父の姿を探しているとき、父の義朝も、 「義平は、どうしたか」 と、死所は一つにと念ずるような眼
ざしで、子の影を求めていた。 |