〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/15 (月) 逆 さ 兜 の 事 (三)

「だ、大弐だいに どの、たいへんぞよ。ことこそ起こりつる」
と、頭中将とうのちゅうじょう 隆国たかくに と、二、三の公卿が、外の矢たけびや、すさまじい武者声に顛倒てんどう して、塗籠ぬりごめ から、走り出て来た。
清盛も気が気ではない。── 何よりも、敵の放火を恐れていた。
「やあ、何を、騒がれるか。あなた方は、主上のお側にあって、玉座をさえ守っておればよいのだ。── なぜ、おそばを離れるか」
「いなとよ、大弐どの。その玉座が、塗籠の間に、お見え遊ばさぬ。・・・・主上には、いずこへ、御渡とぎょ あらせられたのか」
「なに、主上が、お見え遊ばさぬと?」
清盛も、あわてた。
極度に、火を恐れていると、気のせいか、たち の外や内に、めいめりといっている屋響やひび きも、何か、もう炎に音に似たような逼迫ひっぱく を感じさせて来る。── それさえ気もあおられる心地でいるのに、主上のお姿が見えないと告げられたので、仰天ぎょうてん したのもむりではない。
彼は、彼の予測に反して、事態が、急迫してきた驚きに、憤然と、直衣のうし の上によろい を着込み 「もう、子ども任せにはしておけぬ」 と、自身、防戦の意気に燃え上がった出端でばな なのである。
「それは、一大事だ。── よも、味方に裏切りもあるまいが」
と、とうの 中将や公卿たちと一しょに、たち のあなたこなたを探しまわった。
女童めわらべ がかたまり合って泣いている。女院付きの女房たちが、おろおろ、渡殿わたどの を戸惑い走っている。まさにこれは、落城寸前の光景ではないか。
「あ、おられまする。主上には、いちばん奥の、物具倉もののぐぐら の内へ、矢を避けて、おひそ まりあそばしました。── 大弐どの。御安堵ごあんど なされい」
とうの 中将が、そこへ渡る廊の口で、大きくさけんだ。
後から、駆けて来た清盛は、
「や、御安泰か」
と、がっかりしたように立ち止まった。── が、うす暗い物具倉の内をのぞくと、急にかしこ まって、外からこう奏上した。
「どんなことがありましても、清盛がおります以上は、お心づよく思し召せ。・・・・いで、清盛自身、陣頭に出て、眼にもの見せてくれましょうず」
やおら、郎党の手から薙刀なぎなたかぶと を受け取った。そして兜の を結ぶのも、もどかしそうに。廊の橋を、駆け渡って行こうとした。
── すると、始終、彼につき従っていた義弟の非蔵人ひのくろうど 時忠が、
「アっ・・・・殿っ、殿っ。待たれませい」
と、ひどくあわてて呼びとめた。
清盛は、大薙刀なぎなた を、小わきに抱えたまま、廊の橋に立って、振り返った。
「なんだ、時忠。おれが、陣頭に出るのを止めるのか」
と、言った。
「いえ ──」 と、時忠は、吹き出したいような顔つきをこらえて、
「ちょっと、お直し下さい。おん兜が、さか さまです。御大将たるお方の兜が、あべこべでは」
「な、なに。兜が・・・・うしろ向きだと」
清盛は、頭へ、手をやってみて、ちょっと自分でも変な顔をしたが、突然、胸を反らして、笑い出した。
「ばかをいえ! 時忠。何が、これで間違っているものか。おまえたちは、常のかぶり方でも仕方がないが、清盛一人は、主上の玉座に、後ろを見せぬよう、わざと、心を兜に現しておるのだ。余計なことを言わずに、わが前を駆けて、敵を追い払え」
時忠は、あきれた。
しかし時にとっての、この叱言こごと は、涙の出るほど、うれしくもあった。
「あははは。燕雀えんじゃく大鵬おおどり の心もわきまえず、恐れ入って候う。さらば、時忠がお先に立ちますゆえ、殿に、一人の敵も与えずとも、またおいか り遊ばすなよ」
時忠は、勇躍して、清盛の先に走った。おくれるなと、駆けつづく郎党たちも、駆けながら、おかしさが、止まらない顔して出て行った。
見ていた公卿たちも、みな笑いどよめき、ひいては、恐怖とおののきに満ちていた暗い物具倉もののぐぐら の玉座あたりにも、一時ながら、笑いさざめく明るさがうか がわれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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