これは悪源太の手功/rb>
に似て、じつは彼の若気わかげ
による大失策であったと、のちには言われた。── なぜならば、兵庫頭頼政は、信頼や義朝と運命を共にする事は避けたが、さすがに名を惜しむ者であったから、六波羅へも加担せず、兵を下流に退さ
げて、かたく、中立を守っていたものだった。 その中立の一勢力を、悪源太は浅慮あさはか
にも、敵方へ無理に追い込んでしまったと、結果においては、悪評を受けたのである。が、頼政としては、むしろ良い口実を得たようなものであろう。ぜひなく旗を六波羅に加えたとして、それからは明らかに、源氏へ向かって、敵対し出した。 されも、六波羅の舘たち
の内は、大混乱を捲き起こしていた。 (充分に、敵を誇らし、味方は時を見て、内裏から遠く引き退け) (いかに戦うも、大内裏だいだいり
に、火を放つことはならん) (源氏の総勢を、すべて、内裏の御門外に誘い出して、拠よ
る所を失わせ、しかる後、包囲して、これを殲滅せんめつ
する) 等々の指令は、初めに、清盛から言い渡されていた平家方の作戦要項であった。 重盛、頼盛たちの諸将は、その旨むね
のとおりに、戦った。そして、機を見て、退いたのである。 だが、退却は、進撃より、むずかしい。 退くに際して、大将重盛が、悪源太に追いかけまわされたのと、友軍の頼盛が、義朝の追撃に、潰走かいそう
して、混乱を重ねたため、全軍、めちゃくちゃになって、その浮き足を、予定の線に、止とど
めることが出来なかった。 こうなると、予定の退却も、恐怖的なものになって、兵はみな、五条大橋を逃げ渡ってしまい、諸将もやむなく、六波羅へ拠ったので、ついに、大橋を毀こわ
して、敵を阻はば めるような非常手段をとるような始末となった。 しかも、それすら余り恃たの
みとはならない。 源氏の攻勢は、捨て身であった。 清盛が、隠し軍を伏せて、源氏が出払ったあとの内裏だいり
を占領させたのは、たしかに、一兵略に違いなかったが、その代わりに、彼らをして、帰る所のない、退くに拠よ
り場のない、不退転の猛兵にさせてしまったことは是非もない。 義朝以下、源氏の一兵までが、 「一期ご
は、きょうぞ」 「今が、わかれ目だぞ、十年、百年、孫子まごこ
の代までの、運のわかれ目」 と、感じていた。そして味方の屍かばね
も踏み越えて行く甲冑かっちゅう
の豹軍ひょうぐん が、はや、六波羅苑の築土ついじ
や、道や、門や、あちこちの岸へ、矢たけび、喊声かんせい
をあげて、迫っていた。 これらの坂東武者が、こうした戦場では、その野性の勇と、武門の中で研みが
き合う恥なき名において、どんなに勇敢であったかは、このさいにも、幾多の例がある。 金子十郎は、前の夜、内裏の藻壁門そうへきもん
を守りながら、うかと、二条帝の脱出を見逃したので、汚名をここに雪そそ
ごうものと、この日、 「われこそ、六波羅の門を、一番に越えて、玉座ぎょくざ
を奪い返してみせん」 と、むらがる敵へ当っていった。 そのため、矢は射つくし、果ては、折れ太刀を提げて、駆け歩いていた。 するとちょうど、友だちの足立あだち
右馬允うまのすけ がすり抜けたので、呼び返し、 「この通り、折れ太刀では、働きもままにならぬ。わぬしの帯添おびぞえ
え (わきざし) を貸してくれ。恩に着る」 と、頼んだ。 あいにく、足立は、差添さしぞえ
を帯びていなかったので、郎党の持っている太刀を取り上げて、金子十郎に、貸してやった。 十郎はよろこんで、敵の中へ、駆けて行ったが、足立の郎党は、何思ったか、 「もう、さむらいは止めた。おれは、主人に、見捨てられた」 と、わめいて、急に、戦場から立ち去ろうとして。 足立は、驚いて、その郎党へ、 「狂気したか」
と、とがめた。すると郎党は、一そう不平顔をして、 「狂気したのは、あなたでしょう。兵を下知して戦わせる主人が、兵の太刀を取り上げるなんて、よほどどうかしている。わたくしに、立ち往生しろというのか、さむらいを止めろというのか、どっちみち、わたくしは見限られたのだ」 と、食ってかかった。足立は聞いて、 「いや、悪かった。っま待て、そう怒るな」 と、馬を駆けまわして敵と戦い、敵の太刀を取ってきて、件くだん
の郎党に与えたという。 およそ、坂東武者の気負いというものは、卒そつ
までが、そんなふうであったから、これが六波羅の舘たち
へぶつかって来たときは、さしも堅固な二階門も高築土たかついじ
もひと揉も みに突破されるかと思われた。──
けれど、清盛の舘たち は、いまや二条天皇のおられる仮御所ではあるし、そこを破られては、致命となるので、六波羅勢は、附近の平家一族の邸宅も、挙げてまにあ防塁化し、塀へい
、屋根、木々の梢などの高所から、石や瓦かわら
まで投げて防ぎ戦った |