〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/15 (月) 平 治 見 物 記 (二)

郁芳門いくほうもん の戦いも、待賢門に劣らない激戦だった。
ここを守る者は、 左馬頭さまのかみ 義朝よしとも 。攻める方は、清盛の母違いの弟、三河守頼盛。
双方の大将や、軍勢の厚みを見ても、主力は、源平両軍とも、ここにおいていることは明らかであった。
猛烈な射戦しゃせん に始まり、敵味方とも、矢数やかず をつかい尽くしたころ、どっと、平家の武者が、門のうちへ、なだれ込んでいた。
平家は、赤旗や赤幟あかじるし を、源氏は白の大旗や腰旗こしはた を。
それを目標に入り乱れての乱戦となった。やがてまた、赤武者の怒涛どとう は、門の外へ、押し返され、逃げ足の速い先の兵は、三条のつじ の民家のあるあたりまであふれた。
何度も何度も、退 いたり、押し返したりしているうちに、義朝のそつ に、八町はっちょう 次郎じろう という男がいて、自慢の早足にものいわせ、頼盛の馬を、追いかけた。
それは、平家方が、四たび目の逆寄さかよ せを、また、押し出されて、こんどは、 まるところを知らず、総くずれになった時である。
八町次郎は、敵の雑兵の中にまぎれて、一緒に、逃げる振りをしていたが、高倉の辻まで来ると、頼盛が、目の前にいたので、
「── 得たりっ」
と、駆け寄りざま、とう (熊手くまで に似た武器) の を伸ばして、頼盛のかぶと へ引っかけた。
「あっ」
と、頼盛は、身を らした。馬の上から、もんどり打つかと見えたのである。ところが、太刀を抜いて、うしろ ぎに、搭の柄を、切り払った。── かつんという音と一緒に、仰向けに、引っくりかえ ったのは、八町次郎の方であった。

"── アナ、切レタリ。アハレ太刀ヤ。三河殿モ、ヨク切ッタリ、八町次郎モ、ヨク駆ケタリ"
京童きょうわらべ たちが、それを見て、こうはや し立てたと 「古書」 には見える。そんな記事から考えると、この日のような合戦の場合にも、たくさんの野次やじ うま が、流れ矢の危険を冒して、町屋まちや の屋根やこの上に登って、わいわい見物していたものらしく思われる。
女子おなご どもは、避難しても、庶民の一部は、市街に残って、見物していたと思われるような記載は、ほかの話にも見える。
やはりこの平家方が総くずれの時。
兵の藤内とうない という者がいた。
藤内は、大の臆病者おくびょうもの であったから、大将の頼盛より先を駆けて逃げていた。ところが、乗っていた馬が矢に中たったので、これ幸いと、道ばたの小屋の中に隠れこんでいた。
すると、かれの息子が、眼の前で、源氏の武者にとり囲まれ、大勢を相手にして、ついに斬り死にしてしまった。藤内は、小屋の中から、見ていたのだが、足腰もがくがく震えて、どうしても、子を助けに出られなかった。
すきを見て、かれはそこを け出し、何食わぬ顔して生きていたが、街の眼が、見ていたので、後日には、非人情だというそし りが、京雀きょうすずめ にいいはや され、ついに都にいられなくなって、どこかへ姿をかくしてしまったということである。
また、同じ日の合戦に。
斉藤実盛と、熊谷次郎は、どっちも、平家武者の首を、二つ三つ、馬の鞍に、 いつけていたが、かえり みあって、
「この上、敵を追って、六波羅へ迫るには、持ち歩くのも邪魔だし、疲れた馬には、荷物になる。いっそ、堀川へ投げ捨てようか」
と、相談した。
けれどせっかく、首帳にも書き上げられるものを、捨て去るのも惜しいと考えたのであろう。二人は、堀川のいかだ の上に、首を並べて、材木の蔭や、苫舟とまぶね の中からのぞき見している土地ところ の見物人どもを呼び、
「勝も負けるも、戦いは夕方までに決まるから、この筏の上の首を、たそがれまで、失わぬように、番をしていてくれ。── もし、おれたちが、日暮れまでに、取りに来なかったら、あとはどうしようと、おまえたちの処置にまかせる」
といって、持ち合わせの 物代ものしろ (賃銀) を、首と一緒に置き、再び馬に乗って駆け出して行ったという。
こうした戦場点景やら、また、一騎一騎の太刀打ちだの、組み合いだの、部分的には、野次馬も出るほど、うららかな合戦ではあったが、しかし、どこかを主流として、大きな運命を決する大勢は、刻々、全体を支配していたのはいうまでもない。
すでに、四たびまでも撃退された平家方は、高倉の辻まで退いても、まだ浮き足がやまなかった。ついには、河原へなだれる者、大橋を駆け渡る騎馬など、すべて五条の内へ退きこもった。
源氏は、大将義朝をはじめ、義平、朝長、頼朝の子息たちまで、駒をそろえて、追撃にかかった。
鎌田兵衛、新宮十郎、佐渡式部、陸奥むつの 義隆よしたか 、佐々木源三、熱田大宮司あつたのだいぐうじの太郎などの諸将から、坂東ざむらいの屈強くっきょう も、 げて、
「逃げ足の敵に、息をつかせるな」
と、大路大路を、掃くように押して来た。
だが、義朝は、朱雀から内裏だいり の方を、ふと、ふり返って、思わず 「しまった」 と大声をもらした。
なぜならば、いつの間にか、内裏の諸門や高墻たかかぎ には、赤い旗が、ひょうひょうと風の中に見えたからだった。突如、平家の隠し軍が、内部の者と呼応して、源氏の将士と入れ代りに、宮苑へ入ってしまったものに違いない。
皇居の内には、雑仕ぞうし下部しもべ の端にまで、信頼には服さない、いや、むしろ反感を抱いていた者が、無数にいたであろうことは疑えない。かれらは、平家の隠し軍を迎え入れるや否や、たちどころに、右衛うえ 門督もんのかみ 信頼のぶより 以下、一味の公卿や侍を、宮門から追い出した。
ぜひなく、信頼は、軍勢のあとについて、河原下がりに、三条の辺まで、うろうろ馬をすすめていた。── 保元の乱のとき、悪左府頼長が、流れ矢に たってたおれた例を見ているので、かれは極度に、矢うなりをおそ れ、また細心に、矢道を避けながら、五条の戦況を、はるか後ろの方で見ていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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