〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/15 (月) さくらたちばな (二)

かなたの重盛は、その時、ほっとひと息入れて、むく の木のそばに、弓を立てて休んでいた。
「今っ」
と見て、義平は、馬の尾を風に流して、 んで来た。
「もの申さんっ ──」
と、呼びかけた。振り向いた重盛の眼と、燃え立つかれの眼が、はたと会った。
「これは、鎌倉の悪源太義平です。左馬頭義朝が嫡子。君は平家のたれの子か、名乗り給え」
すると、重盛も、ぱっと、 雪泥ゆきどろ を、馬蹄ばてい蹴返けかえ して、向い直った。
「おお悪源太とは和殿わどの か。大弐清盛の子、左衛さえ 門佐もんのすけ 重盛しげもり は、おれぞ」
紫宸殿の名とともに 「左近の桜」 と 「右近のたくばな 」 は、世に有名だ。紫宸殿は南殿ともいって、皇居の南の正殿である。九間四方、勾欄こうらん をめぐらし、内に身舎もや があり、中央に、宸座しんざとばり を立て、大極殿とともに、大礼の儀式が行われる所。
聖賢せいけん障子そうじ 」 また 「紫宸殿」 のがく のかかっているがく もある。
額ノ間の前に、十八段のきざはし があり、下の左右に、左近の桜と、右近の橘が、植えられてある。
南庭なんてい は、白砂はくさ 小石を敷き詰めてあるので、植樹のある辺りを玉敷たましき ともいう。
総じて、この大庭は、庭とはいえ広大な地域であった。その東口と西口には、月華門と日華門がむか いあい、例の椋の大木も、この内にあった。
悪源太義平と、平ノ重盛とは、この大庭を、縦横に馳駆ちく しながら戦った。
一騎と一騎。
ぜもせぬ決戦である。
義平は十九、重盛は二十二歳。一は源氏の御曹司おんぞうし 、一は平家の公達きんだち 。そしてどっちも、そのときの源平両代表の嫡男であった。
おそらく、重盛は、すぐえびら切斑きりふ の矢を抜いて、弓につがえ、
「うけよ、悪源太」
と、第一 を、切って放ったことだろう。
義平は、初めから、弓を持たなかった。射向いむ けのそで を、たて にかざして、
一期いちご見参けんざん を、矢にてこた え給うか。ひきょう 怯ぞ、打物うちもの 取って、向かわれよ」
と、遮二しゃに 無二むに 、かれの手もとへ、近づこうとした。
そのまに、重盛はまた、二の矢を放った。そしてえびら の三の矢へすぐ手をかけたが、 けまわす義平のこまはや さに、矢をつが えているひまがない。
かれの栗毛くりげ は、突然、椋の木から月華門の前を斜めに走った。すると義平のくろ 鹿毛かげ は、先回りして、かれの横へ、当てて来た。
「やよ、六波羅の公達きんだち 。名ほどもなく、うしろを見するか」
「なんの、鎌倉の悪童あくどう づれに」
と、重盛は答えた。とたんにつる りを発して、重盛は、相手が矢におもて を伏せたひまを計って太刀を抜いた。
馬上同士の接戦となった。白刃はくじん と白刃が り結ぶかに見えた。しかし事実は、よほど相互の距離と姿勢しせい が、合致しないと、太刀打ちにならない。鞍と鞍が、ぶつかりあうほど、接しても、その条件にはまらなけらば、一方は、咄嗟とっさ に、馬を わしてしまう。
こうして、馬上同士の一騎討ちは、半ば以上、馬術の練磨れんま が大きくものをいうことになる、従って、しのぎをけずり、火花を散らす程な斬りあいはあり得ない。閃々せんせん 、多くは、くう を切って、駆けちが い、駒を かえ しては、あい つのだった。
それにしても、生命いのち して、人間と人間とが、全霊全力を燃焼しあう “勝負” であることに変わりはない。
かしら から足の先まで、身に、家重代の宝甲ほうこう絢爛けんらん の美をよろ い、はだ には 伽羅きゃら き秘め、草摺くさずり に、平安朝特有な色糸をおどし、小札こざねそで 金具かなぐ の小さな物にも、名匠」「名工が、心を込めたタガネの彫りや金銀の鍍金ときん をちりばねて、その “勝負” は果たされるのであった。
いや、すがた、装いだけでなく、心も、
「恥こそ、かくな」
「名をこそ、惜しめ」と、そのころの道義を、武者の価値基準において、無道な埒外らちがい では戦うまじとそていた。乱軍の雑兵戦では、この制約も行われなかったであろうが、敵味方を代表する名ある者の一騎打ちでは、少なくともその鉄則は守られた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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