〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/14 (日) 左 折 れ 右 折 れ (一)

とりあえず、玉座ぎょくざ を、寝殿しんでん に。東西のたい を、公卿、武将、蔵人くろうど たちの控え所に。
当然、行幸みゆき と同時に、ここは二条天皇の仮宮かりみや とはなったのだが、さしも広い六波羅やしきも。狭さに、ごった返して、あと から後から伺候する公卿諸官のすわり場もない。
そこへまた、美福門院びふくもんいん が、大勢の女房や女童めわらべ を連れて、避難して来られたため、混雑はなおさらろなった。細殿ほそどの泉殿いずみどの出屋でや釜屋かまや にいたるまで人間でうず められた。
「よくも、はいったものかな。わが 一つへ、天下の客を入れたようなものだ」
亭主ていしゅ の清盛すら、そうつぶやいて、あきれ顔だった。その清盛は、紺の直垂ひたたれ に、黒糸おどしの腹巻、籠手こて 脛当すねあて という半武装に、おり 烏帽子えぼし をかぶって、忙しがっていた。
その折烏帽子は、右に折れている。
いつのころからか、平氏と源氏とは、旗の色ばかりでなく、服飾などにも、好みの相違が生じて来て、たとえば、烏帽子の折り曲げ方も、“平家は右折れ、源氏は左折れ” ときまっていたのである。
「父上は、御前でしょうか」
雪の大庭も、くつ や武者わらじに踏み汚されていた。重盛は、父の姿を探して、寝殿の下へ来た。
廊上の公卿のひとりが、欄干おばしま ごしに、重盛へ言った。
「いえ、玉座のお近くには、お見えになりませんが」
「はて、どこへおいでになったのであろう?」
重盛は、父を求めに、中門を出、二階門の内外やら、武者溜むしゃだま りなど、のぞいたりして、またむなしく奥へ戻って来た。
狭いといっても、六波羅のたち 、園内の建物を、すべて見歩いていたらたいへんである。
「困ったお人だ。どうこうするまに、夜も明けなんとしているのに・・・・」
重盛は、空ばかり、仰いだ。夜が明けてはと、東山の端が明るみ出すのを案じているのだ。喜びにつけ、悲しみにつけ、情におぼれやすい父なので、行幸を仰いだ感激に有頂天うちょうてん になって、今暁こんぎょう の戦機を忘れておいでになるのではあるまいか。夜中から待機して並木や河原へ出ている将士も皆やきもきして、出陣令を待ちむいている。
「・・・・だのに、どこをうろうろしておられるやら」
まさか下部しもべ 部屋や厩舎うまや などではないと思ったが、念のため、馬出しの広場のほうへ行きかけると、台盤所だいばんどころ釜屋かまや の渡り廊を歩いて来た父に、ばったりと上と下で、顔を合わせた。
「あ。父上。こんな所に」
「重盛か。なんだ」
「分からぬはずです、釜屋などへ、お渡りとは」
「料理人どもへ、自身、さしずに来たのだ。供御くご に、粗相があってはと」
かし ぎや、膳部ぜんぶ などは、厨房ちゅうぼう の者に、任せておかれてはいかがでしょう。御軍勢は、待ちぬいています。発向の御命令を」
「まだ、夜明けには、間がある」
「明けたら、一大事です。敵に、せん をこされて、五条へ詰め寄せられたら、六波羅はこの有様、防ぎはつきますまい」
「偵察を出しておけ、偵察を」
「仰せまでもなく、物見は辻々に伏せてありますが」
「それでいい」
「しかし、今暁こんぎょう の一とき こそ大事な戦機。せん を取った方が、勝ちですから」
「戦の戦機を、そちに聞こうとは思わぬ。父には父の考えがあることだ。第一には、まず、綸旨りんじ を仰ぎ奉らねばならん。── ところが、陛下には、たった今、ここへ落着かれたばかりであろうが。十八日の間、火の気もない黒戸御所くろどのごしょ に閉じ込められ、御寝ぎょし も足らず、お食物もの もろくに召し上がってはおられない。せめてあたた かい白粥しらがゆ なと先にさし上げてからでなければ、何の奏請そうせい もわしにはできぬよ。・・・・それからだ、出陣は」
「はい」
「経盛、宗盛、頼盛。また、貞家や貞能さだよし 、景安などのさむらい どもへも、よくいい触れろ」
「はっ」
「主上に、白粥をさし上げる間、しばらく待てと。その間は、どかどか、大焚火おおたきび して、手綱の手、弓の手でも暖めておけと」
重盛は、命に服して、退きさがった。あきらかに、戦の不利と分かっているが、けさの父は父なりに昂奮しているようだし、日ごろでも、めったに意見を聞く父ではない。
重盛は、河原へ戻って、雪の五条河原も見えぬほど一面に陣している軍勢へ、こう令を伝えさえた。
焚火たきび 焚火たきび に、思うざま、まき を加えて、心ゆくまでだん をとれ。夜明けもいま だし、出陣やや遅れようほうどに」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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