雪は、内裏の大殿や諸門の屋根に、まろやかな線を描きあげていた。鎧
も兜かぶと も、雪になって、武者たちの姿は、一そう重たげに見える。 大将軍信頼は、閲兵のため、紫宸殿ししんでん
の額がく ノ間に床几しょうぎ
をすえ、子息の新侍従信親、兄の基家もといえ
、基通もとみち 、弟の尾張少将信俊などが、左右に居ながれていた。 一味には、このほか。 伏見源げん
中将師仲もろなか 、越後中将成親、治部卿兼通、伊予前司信員のぶかず
、壱岐守貞知さだとも 、但馬守有房、出雲前司光保、伊賀守光基、河内守李実すえざね
、その子李盛すえもり など、なお驕児きょうじ
の心を誇らすに充分なほどの綺羅星きらぼし
は満み ち満ちていた。 また、武者名簿には。 左馬頭義朝を始めに。──
嫡子、鎌倉の悪源太義平、二男、中宮太夫ちゅうぐうのだいふ
朝長ともなが 。そして三男の右兵衛佐うひょうえのすけ
頼朝よりとも は、まだ、十三歳の少年であった。 以下一族の主なる者には、義朝の叔父六郎義隆、同じく弟の新宮しんぐうの
十郎、いとこの佐渡重成、平賀義信。──郎党頭がしら
では、鎌田兵衛かまたのひょうえ
、後藤基実もとざね 、佐々木源三義秀、三浦荒次郎、岡部六弥太、猪俣小平六いのまたこへろく
、平山武者所、熊谷次郎直実、木曾仲太、武蔵長井の斉藤別当実盛さねもり
など、これを地方的に見ると、相模さがみ
、武蔵、常陸、甲斐、上野こうずけ
、下野しもつけ 、上総かずさ
、三河などの東国人が断然多く、紀州熊野の新宮十郎の手勢が交じっているのが異色にすら見える。 こうしている間に。 雪をついて、六波羅の動きは、頻々ひんぴん
と、早馬されていた。 六波羅方の気勢にも、ただならぬ動きが見え、一部の軍勢は、はや、河原へ出て、進撃の命を待っているとも聞こえた。 またなお、河の東、東山のすそを迂回うかい
して、突兀とつこつ と、内裏の側面へ討って出る奇襲的な気配もうかがわれるなどと、伝令の一報ごとに、 「今日こそ、決戦」 と、紫宸殿をめぐる諸卿と、源氏の将士二千余騎は、兜かぶと
の眉ま びさしに、氷柱つらら
をたれ、鎧の下に、何か、自分でも覚悟のほかであったような、恐怖と血のたぎりを、持ち堪えていた。 正面、額がく
ノ間ま に、高く床几をすえていた右衛門督うえもんのかみ
信頼は、紫むらさき すそごの鎧よろい
に、赤地錦あかじにしき の直垂を着、菊紋をちりばめた小金作こがねづく
りの太刀をはいていた。それに、くわ形の兜かぶと
の白星びゃくせい が、庭上の雪の映は
えて、なんとも美しい。 「心のほどは、ともかくも、打ち見れば、あわれ、立派な大将かな」 と、心ある源氏の諸将は、宿命の盟主を仰いで、思わずつぶやいたことであった。 しかも、彼の馬として、左近の桜の下に、つながれていた黒鹿毛くろかげ
は、遠く、奥州平泉の藤原基衡ふじわらもとひら
から、院のお厩うまや に献上された六戸一ろくのへいち
という名馬だった。 |