信頼は一体、その夜、何をしていたのだろうか。 実に短い夜半
の一ときに、永遠な変化が、彼のそばから、めぐり去っていったものを ── 例のよって、彼は、その夜も、宵のころから、宮中の一室で沈酔していたと、古記のは書かれている。これほどな大事件の首謀者がと、疑えもするが、諸書一致しているし、前後の機微を考え合わせても、どうもそれが本当らしい。 思うに、深宮しんきゅう
の内房ないぼう には、たくさんな女官や更衣こうい
たちが、とり残されていたので、信頼の酔眼には、まことに選よ
り取り見取りの閨ねや の花だったに違いない。彼は、体も大兵の好男子であったし、日ごろから自分でも、美男をひけらかしていた風だから、かの女たちにも、叛乱はんらん
の恩賞をあまねく頒わ け与えるようなつもりか何かで、夜ごと百花の中に酔い臥しては、その荒淫こういん
をほしままにしていたものと思われる。 そう考えた方が、極めて自然に、信頼の心理を解くことが出来よう。天皇、上皇を幽閉し奉ったことからしてすでに異常心理だが、その後も、彼の動作言語は、いちいちふつうの頭脳あたま
ではない。どこかで、頭の一部が溢血いっけつ
したか、脳弁膜のうべんまく に、変調が来ていたに違いないのである。 さればこそ、彼と刎頸ふんけい
を誓って、ともに大事を起こした惟方これかた
や経宗つねむね も、 「これは?・・・・」
と、早くも悔いを抱き始めていたものだろう。歓修寺かんじゅじ
光頼みつより の諌言かんげん
を、渡りに舟として、すぐ六波羅へ内通したことから推しても、彼らの眼にさえ、あぶなっかしい盟主と見え出していたに違いない。 いずれにせよ、彼は、全然、当夜の出来事を知らなかった。『平治物語』
によれば ── 信頼卿ハ、夢ニモ知ラズ、イツモノ沈酔ニテ、女房共ニ、ココ打テ、カシコ擦スレト、寝給ヒケルニ ── などと見える。そんなところでもあっただろうか、やがて、あわただしく、ここへ駆け込んできた越後中将成親に、 「たいへんです。一大事ですぞ。何を、あんかんと、こんな所に、寝くたれていらっしゃるのか」 と、怒鳴られて、初めて、仰天したのであった。 信頼は、雑魚寝ざこね
の白い顔や黒髪の中から、はね起きて、 「な、なんだ、越後どの、たいへんとは」 「何も、御存知なかったのですか。ああ、御運ごうん
の極きわ みよ。情けない」 「敵か。夜討か」 「何者かが、一本御書所いっぽんのごしょどころを破って、上皇をよそへ、お遷うつ
し申し上げています」 「えっ。・・・・いつ?」 「今し方でしょう。主上のおん姿も、黒戸御所くろどのごしょ
の内に、お見えになりません。いずこへ、行幸みゆき
あられしか、卿相けいしょう たちや、番の武者まで、見えもせず、萩はぎ
の戸のあたり、北廂きたびさし
の廊ろう などに、土足どそく
のあとを残した莚むしろ などが敷いてありまする」 「ハハハ、アハハハ」
と信頼は、急に、黛まゆ を八の字によせて、痴児のように笑いこけた。 「越後どのは、夢でも見たか。何か寝ぼけているのであろう。黒戸や御書所の警固には、惟方これかた
と経宗が、当たっているし、宵には、麿まろ
もあの前を、通っておるよ。そのおりとて、何も、別条は見えなかった」 「いや、守りに当っていたその人びとの計らいなのです。下手人げしゅにん
は、惟方、経宗の両名なのですから」 「そ、そんなばかな。・・・・」 信頼は、なお半信半疑だった。けれど、衣服をかえ、太刀たち
などつけて、あたふたと、廊の遠くへ駆け出して行くと、やがて夜陰を破って、そこから口ぎたない彼の怒号や、うろたえ声が聞こえて来た。 |