〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/10 (水) 源 氏 名 簿 (一)

信頼は一体、その夜、何をしていたのだろうか。
実に短い夜半よわ の一ときに、永遠な変化が、彼のそばから、めぐり去っていったものを ──
例のよって、彼は、その夜も、宵のころから、宮中の一室で沈酔していたと、古記のは書かれている。これほどな大事件の首謀者がと、疑えもするが、諸書一致しているし、前後の機微を考え合わせても、どうもそれが本当らしい。
思うに、深宮しんきゅう内房ないぼう には、たくさんな女官や更衣こうい たちが、とり残されていたので、信頼の酔眼には、まことに り取り見取りのねや の花だったに違いない。彼は、体も大兵の好男子であったし、日ごろから自分でも、美男をひけらかしていた風だから、かの女たちにも、叛乱はんらん の恩賞をあまねく け与えるようなつもりか何かで、夜ごと百花の中に酔い臥しては、その荒淫こういん をほしままにしていたものと思われる。
そう考えた方が、極めて自然に、信頼の心理を解くことが出来よう。天皇、上皇を幽閉し奉ったことからしてすでに異常心理だが、その後も、彼の動作言語は、いちいちふつうの頭脳あたま ではない。どこかで、頭の一部が溢血いっけつ したか、脳弁膜のうべんまく に、変調が来ていたに違いないのである。
さればこそ、彼と刎頸ふんけい を誓って、ともに大事を起こした惟方これかた経宗つねむね も、 「これは?・・・・」 と、早くも悔いを抱き始めていたものだろう。歓修寺かんじゅじ 光頼みつより諌言かんげん を、渡りに舟として、すぐ六波羅へ内通したことから推しても、彼らの眼にさえ、あぶなっかしい盟主と見え出していたに違いない。
いずれにせよ、彼は、全然、当夜の出来事を知らなかった。『平治物語』 によれば ── 信頼卿ハ、夢ニモ知ラズ、イツモノ沈酔ニテ、女房共ニ、ココ打テ、カシコ擦スレト、寝給ヒケルニ ── などと見える。そんなところでもあっただろうか、やがて、あわただしく、ここへ駆け込んできた越後中将成親に、
「たいへんです。一大事ですぞ。何を、あんかんと、こんな所に、寝くたれていらっしゃるのか」
と、怒鳴られて、初めて、仰天したのであった。
信頼は、雑魚寝ざこね の白い顔や黒髪の中から、はね起きて、
「な、なんだ、越後どの、たいへんとは」
「何も、御存知なかったのですか。ああ、御運ごうんきわ みよ。情けない」
「敵か。夜討か」
「何者かが、一本御書所いっぽんのごしょどころを破って、上皇をよそへ、おうつ し申し上げています」
「えっ。・・・・いつ?」
「今し方でしょう。主上のおん姿も、黒戸御所くろどのごしょ の内に、お見えになりません。いずこへ、行幸みゆき あられしか、卿相けいしょう たちや、番の武者まで、見えもせず、はぎ の戸のあたり、北廂きたびさしろう などに、土足どそく のあとを残したむしろ などが敷いてありまする」
「ハハハ、アハハハ」 と信頼は、急に、まゆ を八の字によせて、痴児のように笑いこけた。
「越後どのは、夢でも見たか。何か寝ぼけているのであろう。黒戸や御書所の警固には、惟方これかた と経宗が、当たっているし、宵には、麿まろ もあの前を、通っておるよ。そのおりとて、何も、別条は見えなかった」
「いや、守りに当っていたその人びとの計らいなのです。下手人げしゅにん は、惟方、経宗の両名なのですから」
「そ、そんなばかな。・・・・」
信頼は、なお半信半疑だった。けれど、衣服をかえ、太刀たち などつけて、あたふたと、廊の遠くへ駆け出して行くと、やがて夜陰を破って、そこから口ぎたない彼の怒号や、うろたえ声が聞こえて来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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