一方、紫宸殿の公卿僉議は、つづけられていた。 しかし、勧修寺
光頼みつより の登殿を見、その硬骨な放言と、正しい揶揄やゆ
を浴びてから、信頼は上座にいる襟度きんど
を失ってしまうし、議事の熱意も沮喪そそう
して、まったく、しどろもどろな集議に終わってしまったことは是非もない。 議題の主なるものは、その後、各地で追捕した信西しんぜい
の子息や縁類の処分だとか、また、対六波羅ろくはらの方針などであったが、積極的な発言は、たれの口からも出なかった。 ひとり、例の伊通卿これみちきょう
が、今日もよくしゃべってはいた。そして時々、人を笑わせながら、 「まあ、極罪ごくざい
の者でも、遠流おんる ぐらいに、止とど
めおいてはどうであろう。もう、打首は、たくさんじゃ。斬れば斬るほど、人間の生命いのち
を安価にするだけで、なんの示しにもなりはしまい」 と、巧みに、死罪をなだめていた。 たれは出雲へ。たれは下野しもつけ
へ。たれは伊予へ。などとなんとはなく、流罪の地が決められたぐらいで、やがて集議は散開を告げ、十九日の日も暮れてしまった。 すると、その夜、 「清盛が六波羅へ帰ったそうです」 と、衛府えふ
の武者から知らせがあり、また、夜半近くになって、 「六波羅の兵が、清盛を迎えて、にわかに、軍備をととのえ始めておるとのこと」 という飛報もはいった。 信頼は、夜通し、眠れなかった。彼はこのところずっと、清涼殿せいりょうでん
の朝餉あさがれい ノ間ま
に寝泊りしていた。そこは、常々つねづね
、天皇が女房の陪膳ばいぜん で御膳おもの
を召し上がる部屋なのである。 「惟方これかた
に、ちょっと、来てくれと、いうて来い」 淋しさにたえないで、夜半ごろ、侍かしず
きの女房を、萩の戸へ見せにやった。ところが、いつもそこにいる惟方が、その晩にかぎって、見えないということだった。 「では、経宗を呼べ」 と、夕顔ノ三位を、迎えにやったが、その経宗も、当夜は、内裏にいないという。 しかし、とこうする間に、夜は明けて、六波羅方の襲撃もなく、藤壺ふじつぼ
や桐壺きりつぼ の木々の朝霜に、朝の小鳥たちがいつものように囀さえず
りはじめた。 信頼は、北廂きたびさし
の朝陽あさひ を見てから、初めて、ぐっすりと、寝入ってしまった。 |