〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/08 (月)  かんむり (三)

「あ、これは、兄君で・・・・」
「兄と呼ぶか。そちはなお自分を、この光頼の弟と思うているのか」
「仰せまでもございません」
「ならば、まぎ れもなき肉親じゃ。肉親なれば、弟の痛みは兄の痛み。そちの大罪は光頼の大罪。わしは、恥ずかしい。身のおきばもなおほど、苦しいぞ」
「面目次第もございません」
「── と、そちの良心は、知っているのか。知りつつ天魔に魅入られたか」
「・・・・・・」
「いやしくも、検非違使けびいし 別当べっとう という重職にある身が、右衛門督の車のしりに乗って、信西しんぜい 入道にゅうどう の首を見るため、人目も思わず、神楽かぐら ケ岡などへ、ようのめのめ参ったものだ。それらのうわさを聞くにつけ、この兄は、身のちぢむ思いであった。いや、さまで愚かな弟ではなかったのにと、人を疑い、この耳を疑うていたぞい」
「・・・・・・」
「わが家には、まだかって、悪名の者は出していなかったのに、初めて、そちのようなばか者を世に表わしてしまった。亡き父君やなお世にある老母のお心も思え。── いったい、あんな浮薄な徒にくみして、何を、求めようと考えたのか」
「わたくしの誤りでした。ここ数日の信頼の挙動を見、今は、悔いているところです」
「おう、それが真実ならば、主上、上皇のおん身を、一とき も早く、おつつがなき他所たしょ へおうつ しまいらせるがよい。・・・・せめてもの、おん びに」
「はい」
「いたずらに、日を過ごさば、大弐清盛も、六波羅に帰り着き、軍勢をととのえて、ここへ火を放たんも計り難い。一時も早く、信頼たちの眼をかすめて、黒戸御所、また、一本いっぽんの 御書所ごしょどころ の内より、天皇、上皇のおん身をたす け出し参らすような工夫くふう をせい」
「きっと、致しまする」
「くれぐれ、かれらのような暴悪な者と、末路をともにしてくれるなよ。よいか、弟」
そのとき、朝餉あさがれい と呼ぶ部屋の櫛形くしがた の窓に、人影がさした。光頼が、今のはたれかとたずねると、惟方が答えるには、
「あの部屋には、このごろ、右衛門信頼が起居しておりますから、おそらく、信頼にかしず いている女房でありましょう」
と、いうことだった。
光頼は、憤然として、
「君をば、黒戸御所に幽閉して、自身は、内裏の女房をかしず かせ、朝餉ノ間に ししているとは、いよいよあきれた男である。眉目みめ は貴公子らしくても、信頼などは間違って名門に生まれた無頼漢にすぎぬ。お汝も、いま眼が醒めてくれるなら、まだ罪は軽くてすもう。返す返すそんな者と、一つになって、尊い生命を、粗末にするではないぞ」
と、愛情を込めて諭した。
惟方も、今は非を知って、悔悟かいご の涙に面をぬらした。両手で顔をおおいながら、何事かを、兄に誓っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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