馬上、かえりみると、昨日の百騎が、四百騎となり、朝陽
に輝きながら、都門への道を縮めて行く。まるでうそのような今朝に思える。 四百騎といえば、大兵である。もう何ものも恐くない気がした。百難も来たれといいたげな眉まゆ
が清盛の面に見えた。 まだ陽ひ
の高いうちに伏見に着いた。ここで切目きりべ
王子おうじ から受けて来た梛なぎ
の葉を、稲荷宮いなりのみや へ納め返すのが、熊野詣まい
りの慣なら いであった。清盛以下、軍兵たちは、社前に並んで、戦捷せんしょう
を祈願した。 ふと、清盛は、むかし蓮台野れんだいの
で助けたはらみ狐ぎつね の親子を思い出した。そのせいか、眼をつむって合掌したとき、眸ひとみ
のなかを、狐の影が横切ったように思えた。迷信ぎらいな彼も、今が、生涯の別れめぞと思うと、そんな幻影も描くのであった。それをすら、心の味方として、信じたかった。 その夜、清盛は、六波羅に着いた。 ここばかりでなく、都の中のは灯一つ見えなかった。もう正月も近いのに、街まち
には、歳暮れの人影もない。ただ、けんけんと、冬の月に鳴く犬の声ばかりが耳につく。 けれど、ひとたび、清盛帰ると伝わると、六波羅の館たち
からも、附近の大小の第宅からも、わっと、感情の堰せき
を切ったような声が起こって、灯も篝火かがりび
もない門々から、一族の老幼、男女、郎党、女童めわらべ
までが、何か叫ばずにはいられないように、手を振り振り、往来へ走り出していた。 「時子、時子」 清盛は、人影の波に揉も
まれながら、やっと二階門の外へ来ていた。そこらには、家族たちの顔もちらちら見えたので、第一に、妻の名を呼んだのである。 裳もすそ
をかかげて、多くの家族たちとともに、白い夜霜に立っていた時子は、走り出して、良人おっと
の馬の口輪へすがりついた。 「お帰り遊ばしませ。よう、おつつがなく」 「やあ、いたか」 と、清盛は、妻の無事を、まるで拾い物でもしたようにながめた。そして、 「子どもらは・・・・。義母はは
上うえ は」 と、早口にたずねた。 「みな、お帰りを、待ちぬいておりました」 「たれも、変わりはなかったか。やれやれ、これは、なんという奇蹟fだ」 まさに奇蹟というしかない。清盛は、馬のまま駒寄こまよ
せまで通った。そこには、池ノ禅尼や幼子おさなご
たちの姿も見えた。どの顔も、涙に濡れていないのはない。広い邸内は、灯こそなけれ、歓声や跫音あしおと
に湧き立ち、一夜に生色を取り戻した。 あとで聞けば、こうだった。つい今朝までは、禅尼も時子も、女子どものすべては、音羽山に避難していた。ところが、清盛が帰ると知り、また、伊勢や各地の味方も、駈け集まって来たと聞いて、ここへ戻っていたのであった。 「たれの指図だ。それは、まったく、あべこべだぞ」 清盛は言った。一応、義母や妻子の無事な顔を見てしまうと、あとは、興もない足手あしで
まといを見るような顔つきだった。 「今宵は、せめて居てもよいが、夜が明けたら、また音羽山へ逃げ込んでおれ。お汝こと
たちに恐い目は見せたくない。浮沈の境は、これからのことだ。いつこの舘が、一炬いっきょ
の灰になってしまわぬとは限らぬ」 |