〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/08 (月) 清 盛 帰 る (三)

馬上、かえりみると、昨日の百騎が、四百騎となり、朝陽ちょうよう に輝きながら、都門への道を縮めて行く。まるでうそのような今朝に思える。
四百騎といえば、大兵である。もう何ものも恐くない気がした。百難も来たれといいたげなまゆ が清盛の面に見えた。
まだ の高いうちに伏見に着いた。ここで切目きりべ 王子おうじ から受けて来たなぎ の葉を、稲荷宮いなりのみや へ納め返すのが、熊野まい りのなら いであった。清盛以下、軍兵たちは、社前に並んで、戦捷せんしょう を祈願した。
ふと、清盛は、むかし蓮台野れんだいの で助けたはらみぎつね の親子を思い出した。そのせいか、眼をつむって合掌したとき、ひとみ のなかを、狐の影が横切ったように思えた。迷信ぎらいな彼も、今が、生涯の別れめぞと思うと、そんな幻影も描くのであった。それをすら、心の味方として、信じたかった。
その夜、清盛は、六波羅に着いた。
ここばかりでなく、都の中のは灯一つ見えなかった。もう正月も近いのに、まち には、歳暮れの人影もない。ただ、けんけんと、冬の月に鳴く犬の声ばかりが耳につく。
けれど、ひとたび、清盛帰ると伝わると、六波羅のたち からも、附近の大小の第宅からも、わっと、感情のせき を切ったような声が起こって、灯も篝火かがりび もない門々から、一族の老幼、男女、郎党、女童めわらべ までが、何か叫ばずにはいられないように、手を振り振り、往来へ走り出していた。
「時子、時子」
清盛は、人影の波に まれながら、やっと二階門の外へ来ていた。そこらには、家族たちの顔もちらちら見えたので、第一に、妻の名を呼んだのである。
もすそ をかかげて、多くの家族たちとともに、白い夜霜に立っていた時子は、走り出して、良人おっと の馬の口輪へすがりついた。
「お帰り遊ばしませ。よう、おつつがなく」
「やあ、いたか」 と、清盛は、妻の無事を、まるで拾い物でもしたようにながめた。そして、
「子どもらは・・・・。義母はは うえ は」
と、早口にたずねた。
「みな、お帰りを、待ちぬいておりました」
「たれも、変わりはなかったか。やれやれ、これは、なんという奇蹟fだ」
まさに奇蹟というしかない。清盛は、馬のまま駒寄こまよ せまで通った。そこには、池ノ禅尼や幼子おさなご たちの姿も見えた。どの顔も、涙に濡れていないのはない。広い邸内は、灯こそなけれ、歓声や跫音あしおと に湧き立ち、一夜に生色を取り戻した。
あとで聞けば、こうだった。つい今朝までは、禅尼も時子も、女子どものすべては、音羽山に避難していた。ところが、清盛が帰ると知り、また、伊勢や各地の味方も、駈け集まって来たと聞いて、ここへ戻っていたのであった。
「たれの指図だ。それは、まったく、あべこべだぞ」
清盛は言った。一応、義母や妻子の無事な顔を見てしまうと、あとは、興もない足手あしで まといを見るような顔つきだった。
「今宵は、せめて居てもよいが、夜が明けたら、また音羽山へ逃げ込んでおれ。おこと たちに恐い目は見せたくない。浮沈の境は、これからのことだ。いつこの舘が、一炬いっきょ の灰になってしまわぬとは限らぬ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next